阿漕(あこぎ)
◆登場人物
前シテ | 漁師の老人 じつは阿漕の霊 |
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後シテ | 阿漕の亡霊 |
ワキ | 旅の男 〔または、僧〕 |
アイ | 土地の男 |
◆場所
伊勢国 阿漕浦 〈現在の三重県津市東南部〉
概要
伊勢の海を訪れた旅の僧(ワキ)。そこに一人の漁翁(前シテ)が現れ、この浦は古歌にも詠まれた旧蹟・阿漕浦だと教える。その古歌に詠まれたのは、この浦の漁師・阿漕をめぐる物語。この浦で密漁を重ねていた阿漕は、ついに露見して殺害され、死後もなお罪の苦しみに苛まれていたのだった。そう語り終えるや否や、にわかに風が吹き荒れて辺りを闇が覆い、漁翁の姿は消えてしまう。実はこの漁翁こそ、阿漕の亡霊であった。
僧が弔っていると、地獄の呵責に憔悴した阿漕の霊(後シテ)が姿を現した。今なお密漁への執念を捨てきれず、阿漕は網を曳いて殺生の業をくり返す。そうする内、彼の周りに現れた地獄の業火。魚たちは悪魚毒蛇と変じて阿漕に襲いかかり、冥土の呵責が彼を責め立て、追い詰めてゆく。阿漕は苦悶の声を遺し、海底に消えてゆくのだった。
ストーリーと舞台の流れ
1 ワキが登場します。
伊勢の海。古来よりこの海は、神道第一の聖地・伊勢神宮へと毎日の神膳を捧げる場所。人々はこの神聖な海を畏れ憚り、みだりの漁を許さぬ禁断の地と定めていた。
その伊勢の海を訪れた、一人の僧(ワキ)。神宮参詣を志した彼は、遥々の旅路の末、こうしてやって来たのだった。長い船旅を終え、ようやく陸地に着いた僧。彼は暫しこの地に足をとめ、近隣の名所を見てまわることにした。
2 前シテが登場します。
そこへ現れた、一人の老漁師(前シテ)。心に深い悲しみを抱えた様子の彼は、わが身の罪深い運命を思いつつ、今日も浦へとやって来たのだった。「渡世の道はみな苦しいものと言いながら、中でも殺生の業によって生きる、漁師の生業。そんな身と生まれ、明け暮れ罪を重ねる日々。しかしそれとて、生きてゆくには仕方のないこと――」。
3 ワキは前シテと言葉を交わします。
老人に声をかける僧。聞けば、この地こそ古歌に詠まれた旧蹟・阿漕浦であった。『愛しい人と逢うことも、度重なるうちに露見してしまった。それは、阿漕浦に曳く網のように――』 その古歌を思い出す僧に、老人は言う。「それはこの土地の歌、“曳く網”とは我ら漁師のなす業のこと。賤しい私共とて、名所に住めば風流心は自ずと身につくもの。この歌のことは、よく存じていますよ…」。
4 前シテは、阿漕浦の古歌の由来を語ります。
――神宮へ神膳を捧げるこの浦には、古来、神を慕って多くの魚が集まっていた。神を憚り、禁漁区とされたこの浦。そんな中にも、密漁を行う者が現れる。彼の名は阿漕。しかし度重なる彼の悪行は遂に露見し、彼はそのまま、浦に沈められてしまうのだった…。
「死後までも続く罪の報いに加え、古歌として世に知られることとなった阿漕の名。人々がこの名を口にするたび、その言葉は責め苦となって降りかかるのです――」。
5 前シテは、自らの正体を明かして姿を消します。(中入)
実はこの老人こそ、阿漕の亡魂であった。ここで出会ったのも仏縁ゆえと、彼は僧に回向を願う。夕暮れの空の下、汐煙の向こうに見える漁火を眺めつつ、密漁のさまを見せはじめた阿漕。するとその時、穏やかな海の情景は一変する。にわかに疾風が吹き乱れ、暮れまさりゆく空の色。漁火は風にかき消され、闇が辺りを覆い尽くした。「おお、これはどうしたこと…!」 その叫び声を遺して、阿漕は消えてしまうのだった。
6 アイが登場し、ワキに物語りをします。
そこへやって来た、この浦の男(アイ)。彼は僧に尋ねられるまま、いにしえの阿漕の故事を物語る。その言葉に耳を傾けていた僧は、阿漕の回向を決意する。
7 ワキが弔っていると後シテが出現し、漁への執心のさまを見せます(〔立廻リ〕)。
苦悶の声とともに消えた、阿漕の霊。僧はそんな彼を思い、懇ろに法華経を手向ける。
そこへ現れた、阿漕の亡霊(後シテ)。地獄の苦患に憔悴した様子の彼は、そんな姿となってすら、漁への執心を捨てきれずにいた。「今宵はまだ舟の影もなく、この浦にいるのは私だけ。今がよい時分、今日も網を曳きはじめよう…」 罪の報いを受けてなお、執心の網を曳き続ける阿漕。有難い回向の声に感謝しつつも、彼の心を覆うのは、今なお密漁への執念だったのだ。
8 後シテは、地獄の呵責に苦悶しつつ消え失せます。(終)
そのとき。打ち寄せる波から吹き出た猛火は、阿漕の体を焼き尽くす。丑三ツをまわった闇夜の中、向こうから迫り来るのは火車の影。魚たちは悪魚毒蛇と変じ、漁をする阿漕に襲いかかる。紅蓮の氷に骨は砕け、叫ぶ息は火焔の形。阿漕浦に現れた地獄の光景に、絶え間なく続く呵責の時間。「助けて、助けてくれ…!」 阿漕はそう懇願しつつ、海底に沈んでいったのだった。