銕仙会

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曲目解説

江口(えぐち)

 

◆登場人物

前シテ 女  じつは江口遊女(えぐちのゆうじょ)の霊
後シテ 江口遊女の幽霊(普賢菩薩の化身)
ツレ 遊女の霊 【2人】
ワキ 旅の僧
ワキツレ 同行の僧 【2‐3人】
アイ 土地の男

◆場所

 摂津国 江口の里  〈現在の大阪市東淀川区江口〉

概要

江口の里を訪れ、いにしえ西行法師と歌問答をしたという江口遊女の墓に詣でた僧の一行(ワキ・ワキツレ)。一行が西行の歌を口ずさんでいると、そこへ一人の女(前シテ)が現れ、「なぜ遊女の返歌を吟じないのか」と言う。女は、“この世への執着を捨てよ”と述べた遊女の返歌を明かすと、自分こそ江口遊女の霊だと明かし、姿を消してしまう。
その夜、一行の眼前に、川舟に乗った江口遊女(後シテ)が侍女たち(ツレ)を連れて現れた。川逍遥の姿を見せ、遊女の生業を謡い聞かせる彼女。彼女はこの世の無常を観じ、遊女を生業とする身のつらさを語りつつ、静かに舞を舞う。しかしやがて、この世界のすがたを見届けた彼女は、それも全ては迷いの心ゆえだと述べると、たちまち普賢菩薩の姿に変じ、西の空へ去ってゆくのだった。

ストーリーと舞台の流れ

1 ワキ・ワキツレが登場します。

仏道と、風流と。飛花落葉を見つめては儚き世の理を知り、西へ行く月にいざなわれては救いの光に思いを託す、そんな数寄と求道に生きる僧たち(ワキ・ワキツレ)がいた。移ろいゆく四季のすがたを追い求め、諸国を行脚してまわっていた彼ら。一行はこの日、淀川のほとり 江口の里へとさしかかったところである。
それは、物寂しげな風情が辺りを覆う、ある秋の夕暮れのこと。

2 ワキはアイから江口遊女の旧跡を教えられ、往時を偲びます。

土地の男(アイ)に声をかけ、この里の名所を尋ねる僧。男は、ある石塔へと一行を案内する。それは、いにしえ西行法師と歌問答をしたという、江口遊女の墓所であった。その昔、宿を借りようとした西行が遊女に断られ、『世を厭わぬのは仕方ないが、一夜の宿まで惜しむとは』と詠み遺したという、古き世の物語。僧たちはその歌を口ずさみつつ、西行の昔を偲ぶ。

3 前シテが声を掛けつつ登場します。

そのとき、一人の女(前シテ)が呼びとめた。「もうし、なぜ今の歌を口ずさむのです。物惜しみの女と語り継がれる、身の恥ずかしさ…。遊女の返歌をご存じないのですか」。
はっとする僧。確かに遊女は歌を返していた。『貴方が世を厭う人ゆえ、仮の宿に執着しないようにと思ったまでです』——そう詠んだ江口遊女が西行に示したのは、“仮の宿”であるこの世へのまなざし。僧たちは遊女の返歌を偲び、その亡き跡を慕うのだった。

4 前シテは、自らの正体を明かして姿を消します。(中入)

時刻は黄昏どき。川を背にした女の姿は、次第におぼろになってゆく。「実は私こそ、いにしえの江口遊女の霊。こうして予期せず来訪を受け、貴方と言葉を交わすのも、思えば何かのご縁なのですね…」 そう告げると、女は姿を消すのだった。

5 アイが再登場し、ワキに物語りをします。

そこへ、先刻の男がやって来た。僧たちに尋ねられるまま、江口遊女の故事を物語る男。その言葉に耳を傾けていた僧たちは、更なる奇蹟を見たいと心に願うのだった。

6 ワキたちが待っていると、後シテ・ツレが出現します。

夜。清らかな月が波間に影を落とし、淀川の水は滔々と流れゆく。そんな中、経を手向ける一行の前に、遊女の屋形舟が現れた。月明かりの下、舟の中央に坐す人影こそ、かの江口遊女の幽霊(後シテ)。『浮世の夢に馴れ耽り、身の果てを思う暇もなき日々。別れゆく人を見送り、訪ねても来ない人を待つ、遊女の哀れな生きざまよ——』 彼女は侍女たち(ツレ)とともに遊女の身の上を謡い、川逍遥をしていたのだった。

7 後シテ・ツレは、ワキと言葉を交わします。

遠い昔物語の中に生きる、江口遊女。そんな古人の姿に驚く僧へ、遊女たちは言葉をかける。「何事も、“いにしえ”に限ったことではありません。その昔の面影も、いま貴方の見ている光景も、全ては同じ世界の姿。ご覧なさい、月は昔のままに輝いているではありませんか…」 気ままに言葉を交わし、戯れる遊女たち。彼女たちは遊女の身の思いを謡に託し、月光のもと、たおやかに舞いはじめる。

8 後シテは、無常の世の理を説きつつ舞います(〔クセ〕)。

——離合集散を繰り返す無常の世に、迷い続けるこの身の上。快楽に満ちた天界も、苦しみに喘ぐ悪道も、全ては菩提を妨げる。たまたま人の身を受けてなお、邪淫の罪を重ねる日々。風に衰える春の山や、霜に萎れる秋の林。瞬く間に変わりゆく世界、それは、移ろい易き人の心も同じこと。…そう知ってはいてもなお、愛を貪り続けずにはいられない、この身の性(さが)。妄執に迷い、罪作りに過ごす人生、それは誰しも同じこと——。

9 後シテは、緩やかに舞を舞います(〔序之舞〕)。

遊女の生きざまを胸に、静かに舞を舞う彼女。
そうする内にも更けてゆく、秋の夜。月影を宿す川波はゆったりと流れゆき、留まるところを知らない。『波が立ち、苦しみが生まれる。それも全ては迷いの心ゆえ。惜しむ心を持たなければ、憂き世もありません…』。

10 後シテは、普賢菩薩に変じて消えてゆきます。(終)

思いの丈を託して舞いおおせた彼女。やがて、彼女は僧に告げる。「思えばこの世は仮の宿、心を留めてはならぬのです——」。
そう告げるや否や、彼女の体は純白の光を放ち、普賢菩薩へと変じた。川舟は白象の姿となり、辺りには白妙の雲がたなびく。その白雲に乗り移ると…、彼女は月の光に包まれつつ、西の空へ去っていったのだった。

(文:中野顕正  最終更新:2022年04月05日)

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