銕仙会

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曲目解説

(きぬた)

◆登場人物

前シテ 芦屋某の奥方
後シテ 奥方の幽霊
ツレ 芦屋某の侍女 夕霧
ワキ 芦屋某
アイ 芦屋某の下人

◆場所

【1】

 京都 芦屋某の滞在所

【2〜11】

 筑前国 芦屋の里  〈現在の福岡県遠賀郡芦屋町〉

概要

訴訟のため都に長期滞在していた芦屋某(ワキ)は、故郷に残した妻を気がかりに思い、侍女の夕霧(ツレ)を遣わす。夕霧が帰郷すると、某の奥方(前シテ)は寂しい田舎生活の日々を送っていた。孤独な自らの思いを夕霧に吐露するうち、里人の打つ砧の音を聞いて感を催した奥方は、辛い思いを慰めるべく、自らも砧を打ちたいと言い出す。寂しげな秋の夜、湧きかえる夫への思いを託して砧を打つ奥方。しかしそのとき、夫はこの年末にも帰らないとの報せが入る。落胆した奥方は病を得、そのまま息を引き取るのだった。

妻の訃報に、急いで帰郷した某。某が仏事を執り行っていると、そこへ奥方の亡霊(後シテ)が現れた。待ち続けてきた自らの辛かった日々を訴え、夫に恨み言を述べる奥方。しかし某の誠実な弔いに、彼女はついに成仏を遂げるのだった。

ストーリーと舞台の流れ

1 ワキが登場し、ツレに故郷への伝言を託して一度退場します。

九州 芦屋の里。この地の領主・芦屋某(ワキ)は、訴訟のために京への逗留を余儀なくされていた。裁判は長引き、早くも三年目の秋。心にかかるのは、故郷へ残してきた妻のこと。某は侍女の夕霧(ツレ)を呼び出すと、故郷へ向かうよう告げる。

海道を下ってゆく夕霧。遥々の旅路を急ぐ彼女の胸中には、ひとり待つ奥方への思いが去来する。夜を重ね、日を暮らしつつ、彼女は芦屋へと向かうのだった。

2 前シテが登場します。

芦屋に着いた夕霧。某の屋敷の中では、奥方(前シテ)がひとり嘆きの日々を過ごしていた。「雌雄仲睦まじく寄り添いつづける鳥や魚たちですら、わずかの間の別離にも心は乱れるものという。ましてや遠く隔たってしまった、私たち夫婦の仲。共にこの世の内とはいいながら、偲ぶ思いの涙に咽び、声を上げて泣くばかりの日々。私の心の晴れる時は、いつの日か、やって来るのだろうか…」。

3 ツレは前シテと言葉を交わします。

夕霧に気づいた奥方。奥方は、久しく音沙汰の無かった夕霧に恨み言を述べ、これまでの孤独な思いを吐露する。「花の都ですら、辛いことだってあろうもの。ましてや何もない田舎の暮らし。枯れゆく秋の草花とともに、私の心も飽き果ててしまった。あの人との縁もすっかり切れ、わが身に残る思い出の日々とは裏腹に、世は瞬く間に移りゆく。人の言葉を疑わずに済む世の中ならば、どんなにか嬉しかったことでしょう…」。

4 前シテは砧を打とうと言い出します。

嘆く奥方。そのとき彼女の耳に、里人たちが衣を柔らかくするために打つ“砧”の音が聞こえてきた。音に聴き入っていた奥方は、中国のある故事を思い出す。それは、武将・蘇武が北の異国に囚われの身となった時、夫の夜寒を思いやった妻が砧を打ったところ、彼女の想いとともにその音が夫の耳に届いたというもの。奥方はそんな蘇武の妻にわが身を重ね、せめての慰みにと、砧を打ちたいと言い出す。

5 前シテは支度を済ませ、砧へと向かいます。

砧など、賤しい者の扱う道具。しかし、それで心が慰められるなら…。夕霧は奥方を思いやり、砧を打つ準備をはじめる。

澄んだ月光が地表を照らし、冷たい風が吹きぬけてゆく、晩秋の宵。妻を恋うて牡鹿の鳴く中、どこからともなく散ってきた一枚の葉こそ、寄る辺なきわが身そのもの…。物思わしき秋の夜長。そうするうちにも時刻は移り、月は西へと流れゆく。

6 前シテは、自らの思いを吐露しつつ砧を打ちます(〔砧之段〕)。

――西から吹き来る秋風に乗って、砧の響きよ、あの人のもとへ届け。でも、あまりに強く吹いたなら、想いが届いて夢に現れた私の姿をも、かき消してしまうかしら。そうなっては、この衣も徒らになってしまう。しかしそれでも、私は何度だって衣を繕い、夫の無事を祈るのです…。七夕の夜はひとときの儚い夢、しかし今は辛さの増さる晩秋。冴えわたる月、吹き落ちる風、淡い光を宿す霜の間で、虫たちまでもが寂しげな音色を添える長夜。ほろほろと聞こえてくるのは砧の音か、それとも私の流す涙だろうか…。

7 前シテは、帰ってこない夫に絶望して亡くなります。(中入)

感傷に耽る奥方。しかし、現実は余りに非情なものだった。「奥様、只今到着した使者によれば、旦那様はこの年末にも帰って来られないとのこと…!」 すすり泣く夕霧、呆然とする奥方。彼女はこれまで、去来する不安と不信を必死で振り払い、自らの心を励ましつづけて待ってきた。しかし今度こそ、それも限界。絶望のあまり病を得た彼女。枯れ残った野の草花が風に散ってゆく暮秋の中で…、奥方は、静かに息を引き取るのだった。

8 アイが登場して法要の開催を告知し、次いでワキが再登場して奥方を弔います。

急ぎ京へ届けられた、奥方の訃報。某はその報せに驚き、万難を排して帰郷を決意する。故郷に到着し、法要の支度をはじめる某。下人(アイ)たちも、その準備に奔走する。

やがて準備が整い、形見の砧の前へと進み出た某。生前の妻の様子を聞いた某は、彼女の思いの詰まった砧を見つめ、悔恨の思いを新たにする。懇ろに経を手向けていた某は、再び妻と言葉を交わすことを願いつつ、霊を招くという“梓弓”を弾き鳴らしはじめる。

9 後シテが登場し、冥界での苦しみのさまを見せます。

静寂の室内にこだまする、招魂の響き。するとその音に引かれ、憔悴した奥方の霊(後シテ)が姿を現した。「冥い波底へと沈み果てた、儚い身の行方…。愛を求めて過ごした日々は地獄の呵責となって降りかかり、妄執ゆえに砧を打った私の身を、獄卒たちが打ち責める。廻る因果に涙すれば、こぼれる雫は火焔と変じて身を焼き尽くし、業火の煙に声も出ない。砧の音も松風も、この世界からは消えてしまった――」 奥方は、満たされぬ思いの罪ゆえに、今なお冥界で苦しみ続けていたのだった。

10 後シテはワキに恨み言を述べ、不実を責めます。

――生前への執心ゆえに、輪廻の苦海から抜け出すことも叶わぬ私。思いはこの胸に消えかえり、こうして面を晒さずにはいられない。貴方の恨めしいこと。遠い未来まで一緒にと誓った、あの時の言葉も徒らになってしまった…! 蘇武が南へ渡る雁に手紙を託し、ついに帰還を遂げたのも、ひとえに妻への想いの深さゆえ。あなたは夢の中ですら、私の打った砧の音を、聞きはしなかったのね…。

11 後シテは、回向の功徳によって成仏してゆきます。(終)

妄執に苦しみ、悲しみに満たされていた奥方。しかしやがて、その彼女にも救いの道が開かれた。某が真心を込めて手向けた法華経。その功徳は一輪の花となって、渇ききった彼女の心を包みこむ。そして遂に、彼女は成仏を果たしてゆく。

砧の音に託した、奥方の思い。それこそが、迷い続ける彼女の魂を救ったのであった。

(文:中野顕正  最終更新:2018年12月4日)

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