銕仙会

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曲目解説

姨捨(おばすて)

◆別名

 伯母捨(おばすて)  ※他流での表記。

◆登場人物

前シテ 女  じつは老女の霊
後シテ 老女の幽霊
ワキ 都の者 〔または、旅の僧〕
ワキツレ 同行の男〔または、僧〕 【2人】
アイ 土地の男

◆場所

 信濃国 更科(さらしな)の里 姨捨山  〈現在の長野県千曲市 冠着山〉

概要

仲秋 十五夜の日。都人の一行(ワキ・ワキツレ)が月の名所として名高い信州 姨捨山を訪れると、一人の女(前シテ)が現れる。女は、昔この地で起こった“姨捨”の故事にまつわる旧蹟へと一行を案内すると、自分こそその時この山に棄てられた老女の霊魂だと明かす。女は、夜とともに再び現れ、共に月を眺めようと言うと、姿を消してしまった。
その夜。一行の眼前に現れた老女の霊(後シテ)は、かつて無いほどに美しく照り輝く今年の十五夜の月を見て、万感胸に迫り、昔を思い返しつつ一座に加わる。月光が体現する極楽浄土のすがたを讃嘆して舞を舞い、月影の下で戯れる老女。そうする内、老女の心には妄執がわき起こり、彼女は昔の秋を恋い慕う。しかしやがて夜は明け、霊魂が見えなくなるとともに都人たちは帰ってゆき、老女は再びこの山に捨て置かれてしまうのだった。

ストーリーと舞台の流れ

1 ワキ・ワキツレが登場します。

八月十五夜。古来、一年の中で最も月が美しく輝くとされたこの日、心ある人々は秋の夜の風情に心を寄せ、遥かなる天へと思いを馳せていた。
中でも信州 姨捨山は、月の名所として古歌にも詠まれ、都まで名の知れた土地。折しも十五夜の今日、名高い姨捨の月を見ようと、都の人々(ワキ・ワキツレ)が誘い合わせ、当地へと下向してきていた。

2 ワキは、姨捨の里の風情を眺めます。

時刻は夕暮れ近く。姨捨山に登り、麓の里を眼下に見下ろす都人たち。この山の嶺は平らかで、万里のかなたまでもが見晴るかされる。間もなく訪れる、大地を照らす月光の風情は、さぞかし見事なものに違いない…。都人たちは期待を胸に、夜の到来を待つ。

3 前シテが、ワキに言葉を掛けつつ登場します。

そのとき。一行の背後から、年闌けた一人の女性(前シテ)が声をかけた。この更科の里の者と名乗り、今夜の月の風情に期待する様子の彼女。彼女は、名高い“姨捨”の故事の旧蹟を訊ねる一行を、とある桂の木のもとへと案内する。「この小高い桂の木の蔭こそ、いにしえの姨捨の人の亡き跡。その人はこの木蔭に捨て置かれ、そのまま土中に埋もれてしまった…」 その執心が残ってか、荒涼とした様子のこの地。吹き抜けてゆく秋風までもが身に沁みる、寂しい山の様子であった。

4 前シテは、正体を明かして姿を消します。(中入)

初めて当地へ来たと明かす一行。その言葉を聞いた彼女は、今宵月とともに現れ、夜の徒然を慰めようと告げる。「実は私こそ、この山の名の由来ともなった、姨捨の昔の亡き人なのです…」 躊躇いつつも正体を明かした彼女。彼女は棄てられて以来ずっと、たった一人、この山で歳月を送り続けていたのだ。「毎年、秋の名月の折にはこうして現れ、執心の闇を晴らしているのです——」 そう明かすと、彼女は姿を消してしまった。

5 アイが登場し、ワキと言葉を交わします。

そこへやって来た、この里の男(アイ)。一行は彼へ、この山の名の由来となった、昔の姨捨の故事を尋ねる。男は一行の願いに応え、その故事を語り始めた。——

6 アイは、姨捨の故事を物語ります(〔語リ〕)。

——昔、この里に一人の男がいた。幼い頃に両親と死別した彼は、伯母の手で育てられ、やがて妻を迎えるまでに成長した。ところが、この妻は伯母の存在を疎み、彼女を山に棄てるよう男を唆す。余りの執念に、遂には承諾してしまった男。男は伯母を背負って山を登り、この桂の木蔭に下ろすと、この石を生身の阿弥陀仏だと偽り、やがて迎えに来ようと告げて逃げ帰った。老い衰えた盲目の身ゆえ、その言葉を信じてしまった伯母。しかしやがて、彼女は棄てられたことに気づくと、声を上げて泣き悲しんだのだった…。

7 ワキたちが待っていると、後シテが出現します。

男の語る物語に、耳を傾けていた一行。そうするうち、月は早くも東の山に昇り始めた。『十五夜の月の光に照らされては、二千里のかなたにいる古き友へと思いを馳せる』とは古人の言。一行は、隈なく照り映える月の下、亡き老女の魂を偲ぶ。
そこへ現れた老女の霊(後シテ)。『この夜が明ければ、寂しくも美しい秋は、もう半ばを過ぎてしまう。惜しいのは、今宵の月だけではないのだ——』 彼女は、月光を帯するが如き白衣を身にまとい、十五夜に思いを寄せる古歌を口ずさみつつやって来た。

8 後シテは、ワキと言葉を交わします。

彼女こそ、この夕暮れに言葉を交わした女の霊であった。ただでさえ待ち遠しかった十五夜。それも今年は、かつて無いほどに冴え輝いている。万感の思いを胸に、こうして現れた彼女。「ああ、昔が思い返されるよう。人々と一座になって月を眺め、こうして心通わせていると…」 かつて棄てられた身でありながら、またもや人々の輪に入ってしまう老女。何でもお見通しの月の下で、そんなわが行いの恥ずかしいこと。しかし所詮、ここは夢の世。わが身の恥は忘れて、月影に戯れ舞おうではないか——。

9 後シテは、月光が体現する極楽浄土のすがたを讃えて舞います(〔クセ〕)。

——大地を普く照らす月光は、阿弥陀様の救いの光に他ならぬ。月は、見る者の心を西の空へといざなう。それこそ、阿弥陀仏の右脇に控えて人々を導く、大勢至菩薩の現れ。菩薩の天冠には宝華が具わり、宝台には諸仏の浄土のすがたが浮かび上がる。妙なる音楽を奏でる風、色とりどりに咲き薫る蓮、声を合わせて囀る鳥たち。月の光は、そんな仏国土の有様を体現しているのだ。とはいえ、月にも満ち欠けがある。それは、定めなき世の理を、人々に示そうとするがゆえ…。

10 後シテは、月光の下で舞い戯れます(〔序之舞〕)。

夜の遊宴に舞を舞えば、恋しい昔に帰ってゆくよう。老女は月光の下、舞の袖を翻す。
『この姨捨山に照る月を見てしまっては、私の心は慰めきれないのだ——』 ほんのひととき現れて、儚い夢の世の中で舞う彼女。さあ、昔の秋へと帰ってゆこう。彼女の心には妄執がわき起こり、その思いは秋風に身を任せても如何ともしがたい。恋しいものは昔の秋、慕わしいものはこの世の友なのだ…!

11 ワキ一行は帰ってゆき、後シテは一人取り残されます。(終)

そうするうち、次第に明けてゆく夜。白みはじめた空の下、人々の目には霊魂の姿は見えなくなり、旅人たちは帰ってゆく。ひとり、この地に取り残された老女。またもや彼女は棄てられてしまったのだ。こうして今また、この山は、“姨捨山”となってしまったのだった——。

(文:中野顕正  最終更新:2023年09月18日)

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