銕仙会

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曲目解説

鍾馗しょうき
髭をたくわえ、剣を手にし、大きな眼でギョロリと睨む、道教の神・鍾馗。治まる御代を守る、魔除けの神の威力。
作者 金春禅竹か
場所 唐の都 長安の南東 終南山 (現在の中国 陝西省)
季節 晩秋
分類 五番目物 鬼物

 

登場人物
前シテ 里人 面:怪士など 怪士出立(異形の者の扮装)
後シテ 鍾馗大臣の霊 面:小癋見 小癋見出立(世界の秩序を守る鬼の扮装)
ワキ 旅人 大口側次出立(中国人の扮装)
間狂言 終南山麓に住む男 肩衣半袴出立(庶民の扮装)

概要

中国 終南山の麓に住む男(ワキ)が、皇帝に謁見するため都へ上ろうとすると、そこへ異形の男(シテ)が現れ、自分は昔国家試験に落ちて自殺した鍾馗の霊であると明かし、今では悪鬼を滅ぼす守護神となったと告げ、そのことを皇帝に伝えるよう頼む。鍾馗の霊は、後刻に真の姿で現れようと予告すると、疾風の如くに消え去っていった。やがて男の前に、道教の神となった鍾馗(後シテ)が現れ、治まる御代を祝福するのであった。

ストーリーと舞台の流れ

1 ワキが登場し、自己紹介をします。

ここは中国 終南山しゅうなんざん。都・長安の南東に位置するこの山の麓に、一人の男(ワキ)が住んでいた。男は、皇帝に申し上げるべきことがあり、都へ上ろうと旅立つところであった。

2 シテがワキに声をかけつつ登場し、二人は言葉を交わします。

「おうい、そこの旅人どの」。そのとき、背後から彼を呼ぶ声がした。その声の主は、怪しげな雰囲気の男(シテ)。「私は昔、悪い鬼を滅ぼし国土を守ろうとの誓いを立てた者です。陛下が仁徳ある政治をなさるなら、宮中に現れて奇跡をお見せしましょう。…そのように、陛下に申し上げては下さるまいか。」

彼は、自分こそ昔国家試験に落第して自殺した鍾馗の霊であると明かす。

3 シテは世の無常のさまを語ります(〔クセ〕)。

時刻は夕暮れ。あたり一面は空恐ろしく、物凄まじい気配である。

――人生、それは風に吹かれる雲。夢の間に吹き払われ、消え去ってしまう。世界、それは水に浮かぶ泡沫。暫しも留まることなく、生滅を繰り返す。春の栄えはすぐに衰え、秋風の吹く季節。空ゆく鳥たちの鳴き声までもが、黄泉路を知らせているよう…。
鍾馗の霊と旅人の二人は、世の無常のさまを語らう。

4 シテは、後刻に真の姿で現れることを予告して消え失せます(中入)。

不思議を目の当たりにした旅人は、急ぎ都へ上り皇帝に申し上げようと言う。

それを聞いた鍾馗の霊は、「せっかくこうして出逢えた夢の中。私も、本当の姿をあらわそう」と告げると、疾風の如くに去って行ったのだった。

5 間狂言がワキに物語りをし、退場します。

そこへ現れた、終南山麓に住む男(間狂言)。旅人は彼に、鍾馗にまつわる故事を尋ねる。

――鍾馗は、唐の初期に生きた人物。終南山出身の彼は、国家官僚の採用試験である科挙かきょを受験したが、当時きわめて難関であったこの試験に、彼は不合格。失意のうちに、彼は宮中の石段に頭を打ち、自殺してしまったのだった…。

6 ワキが弔ってると、後シテが現れます。

鍾馗について知った旅人は、彼を弔おうと経典をよみ始める。

すると、今や道教の神となった鍾馗の霊(後シテ)が姿を現した。手に持つ宝剣の光は冴えわたり、悪鬼も恐れをなすばかりの、鍾馗の精霊の威勢である。

7 シテは国土を守護するさまを見せ、治世を祝福し、この能が終わります。

「科挙に落第したときの執心。しかしその悪心を翻し、今では君を守る神となったのだ。宮殿を守護し、君を悩ます悪鬼どもをズタズタに斬り捨てる、国家の守護神なのである…。」
悪心を平らげる、鍾馗の威力。その力によって、治まる御代は末永く続くのであった。

みどころ

本作の主人公は、中国 道教の神・鍾馗です。

長い髭をたくわえ、中国の官人の衣装に身を包み、剣を手にして大きな眼でギョロリと睨む姿で描かれる鍾馗は、中国の道教系の民間信仰で祀られるほか、日本でも魔除けとして祀られることがあり、特に地域によっては五月五日の端午の節句で絵画や人形が飾られ、「鍾馗さん」と呼ばれて親しまれています。

この鍾馗は、本作で語られるように、科挙(中国歴代王朝における官僚登用試験で、きわめて難関であった)に落第して宮中で自殺し、後に皇帝と国家を守る神となった人物として知られています。この鍾馗を題材とした能には本作のほか〈皇帝〉があり、どちらの能でも、疫病の神を平らげ、治まる御代の秩序を守る神として、鍾馗は描かれています。

本作は、世阿弥の女婿である金春禅竹によって書かれたと伝えられています。神としての姿をあらわした鍾馗(後シテ)が登場する場面では、その鍾馗の姿が「宝剣光すさましく」という言葉で形容されますが、これは世阿弥の演劇論書「九位」の中に登場する言葉で、その中では、力強く、それでいて細やかに演技をすることのできる芸の境地(「強細風」)を表す言葉として用いられています。この境地は、幽玄な能のあり方を極めた役者が、敢えて荒々しい役を演じることで現出される境地であるとされており、地獄の鬼や荒ぶる神の役を演じる時のあり方として考えられていました。

鬼の能は、世阿弥や金春禅竹たちの属した大和猿楽(興福寺・春日大社に従属する猿楽組織)の得意とする芸でしたが、京都の公家・武家社会との関係を深めて“幽玄”の能を志向した世阿弥は安易に鬼の能を演じることを誡め、幽玄を極めた一流の役者でなければ鬼を演じてはならないと言い残しています。事実、鬼の能のあり方について質問した金春禅竹に対して、世阿弥が「これは、こなたの流には知らぬ事にて候」(鬼の能のことは、私の流儀では知りませんよ)と返答した書状も伝わっています。

その世阿弥の教えを受けた金春禅竹もまた、“幽玄”の道を探究し続け、〈野宮〉や〈定家〉など、古典文学に基づく幻想的な能を書いてゆきました。その金春禅竹が、あえてその殻を破って突き抜けた境地で書いた能…、それが本作だったのかもしれません。

(文:中野顕正)

近年の上演記録(写真)

2015年5月定期公演「鍾馗」 シテ:観世淳夫
(最終更新:2017年5月)

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