当麻(たえま)
◆登場人物
前シテ | 老尼 じつは阿弥陀仏の化身 |
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後シテ | 中将姫(ちゅうじょうひめ)の尊霊 |
ツレ | 女 じつは観音菩薩の化身 |
ワキ | 旅の僧 |
ワキツレ | 同行の僧 【2‐3人】 |
アイ | 土地の男 |
◆場所
大和国 当麻寺(たいまでら) 〈現在の奈良県葛城市当麻。二上山(にじょうざん)の麓〉
概要
大和国 当麻寺に参詣した、念仏僧の一行(ワキ・ワキツレ)。そこへ現れた老尼(前シテ)と女(ツレ)は、この寺の本尊“当麻曼陀羅(たいままんだら)”の成立にまつわる旧蹟へと一行を案内すると、この曼陀羅の発願者・中将姫が生身の阿弥陀仏にまみえるに至った奇蹟の物語を明かす。やがて二人は、自分達こそ姫に曼陀羅を織り与えた阿弥陀仏・観音菩薩の化身だと明かし、西の空に消えてゆくのだった。
その夜。一行の眼前に、今や浄土に転生して菩薩となった中将姫の尊霊(後シテ)が現れた。人々を浄土へ導きたいとの願いにより、こうして苦しみ多き娑婆世界へと舞い戻ってきた中将姫。姫は、生前に手ずから書写した『称讃浄土経』の経巻を僧に授けると、生きとし生けるものを救うという阿弥陀仏の誓いを讃嘆し、舞を舞うのだった。
ストーリーと舞台の流れ
1 ワキ・ワキツレが登場します。
大和国 二上山の麓に建つ、古刹・当麻寺。この寺の本尊“当麻曼陀羅(たいままんだら)”は、その昔、極楽浄土の姿を見たいと願った中将姫の前に阿弥陀仏と観音菩薩の化身が現れ、手ずから蓮の糸を用いて織り上げたとの伝説をもつ。拝む者は往生の願いを増すという、多くの人々の信仰を集めたこの奇蹟の霊像。今日もまた、念仏に励む僧の一行(ワキ・ワキツレ)が、この寺へと参詣に訪れていた。
2 前シテ・ツレが登場します。
そこへ現れた、老尼(前シテ)と若い女(ツレ)。「阿弥陀様を念ずれば、あらゆる罪が滅するとやら。救われ難き末法の世、この世界で苦しむ私たちを、仏様は向こう岸から迎え取って下さる。迷いの雲に覆われた、晴れ間なき雨夜のような私たちの人生。しかし思えば、仏の国はすぐそこにあったのだ。逢いがたい仏の教えに出逢えた今、一心不乱に祈りを捧げよう。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏…」。
3 ワキは、前シテ・ツレと言葉を交わします。
二人に声をかけ、寺の由緒を尋ねる一行。二人は、僧たちを曼陀羅制作の旧蹟へと案内する。「この池は、蓮糸を濯いで五色に染め上げた“染殿の井”。この桜は、糸を掛けて乾した木。その功徳によって、この花はひときわ鮮やかに、蓮の色に咲くのですよ…」。
清らかな池や、美しい木。それはあたかも、宝池と宝樹とに飾り立てられた浄土の姿。空には雲がたなびき、木々の花や若葉が照り映える。五色の曼陀羅さながらの、この里の光景。吹き抜けてゆく風までもが、西の空へと、人々をいざなっているかのよう——。
4 前シテは、曼陀羅の発願者・中将姫の故事を語ります(〔クセ〕)。
——奈良時代。生来信心深かった中将姫は、生身の阿弥陀仏に会いたいと願ってこの山に籠もり、修行に明け暮れていた。涼しい風が山陰を吹き抜けてゆく、ある夏の夜。いつものように修行していた姫がふと顔を上げると、そこには一人の尼の姿。「呼ばれたのでやって来た」と言う尼に、呆然とする姫。それもそのはず。姫は、『南無阿弥陀仏』の声以外には、一言も言葉を発していなかったのだ。しかし実は、それこそが他ならぬこの尼の名。この尼こそ、姫が会いたいと願ってやまなかった、生身の阿弥陀仏だったのだ…。
5 前シテ・ツレは、自らの正体を明かして去ってゆきます。(中入)
それは、曼陀羅成立の昔に起こった奇蹟の物語。その奇蹟を説き明かした老尼は、この寺で法事を営もうと言う。実はこの二人こそ、いにしえ中将姫に曼陀羅を織り与えた、阿弥陀仏と観音菩薩の化身なのであった。
時しも彼岸の中日。沈みゆく日輪がもたらしたのは、遥かなる西の空へと続く、まっすぐに延びた光の道。その光の中を、老尼と女は去ってゆく。二人は、二上山の峰を登ってゆくと見えたが——、そのまま紫雲に乗り、天へと消えていったのだった。
6 アイが登場し、中将姫の故事を語ります。
そこへやって来た門前の男(アイ)。彼は僧に問われるまま、中将姫の生い立ちを語る。それは、幼少期に継母からの虐待を受け、苦しみに満ちたこの世の理を直視せずにはいられなかった、儚い姫君の物語であった。
7 ワキ・ワキツレが待っていると、後シテが出現します。
その夜。更なる奇瑞を見ようと、祈りを捧げる僧たち。すると辺りに、妙なる音楽が聞こえてくる。遥かなる西の空からは、清らかな光がさしてきた——。
やがて、その光に包まれて、中将姫の尊霊(後シテ)が現れた。生前、『称讃浄土経』一千巻の書写を成し遂げ、偽りなき心で仏を念じていた姫。彼女はその功徳により、極楽に咲き乱れる蓮花の上に、生まれ変わることが叶ったのだ。今や菩薩となった姫。彼女は、今度はこの世の迷える人々を救おうと、こうしてやって来たのだった。
8 後シテは、経典を高らかに読誦します。
『阿弥陀仏の光は全宇宙を遍く照らし、仏にすがる者を決して見捨てはしない』。とはいえ、余りに有難い教えゆえ、信じることもまた難しい。「ひたすら頼み、ひたすら信じ、一心不乱にすがるのです。心乱すな、乱れてはなりません…」。
姫は、手にしていた経典を広げ、高らかに読み上げる。『教えを弘め難い、穢れ多きこの世界。そこに生きる人々を救うべく、私はあえて、こうして教えを説くのです——』。
9 後シテは舞を舞い(〔早舞〕)、浄土の教えを讃嘆します。(終)
中将姫によって示された、人々を救う浄土の教え。姫は経典を僧に授けると、浄土のすがたを讃嘆し、舞の袖を翻す。
やがて暁どき。生きとし生ける、あらゆる存在を浄土へと導くこの法事も、終わりの時が近づいていた。仏が見せた奇蹟の夢。その夢の夜は、ほのぼのと明けていったのだった。