銕仙会

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曲目解説

(とおる)

◆登場人物

前シテ 汐汲みの老人  じつは源融(みなもとのとおる)の霊
後シテ 源融の幽霊
ワキ 旅の僧
アイ 土地の男

◆場所

 京都 河原院の旧蹟  〈現在の京都市下京区〉

概要

京都 六条を訪れた旅の僧(ワキ)の前に現れた、一人の老人(前シテ)。海辺でもない当地で、老人は自らを汐汲みと名乗る。実はこの地は、昔の左大臣・源融の邸宅跡。融は生前、陸奥の塩竈浦をこの地に再現し、遊宴を催していたのだった。老人は、詩情を解するこの僧に心を許し、融亡き後に荒廃してしまった邸宅の歴史を明かしつつ、昔を恋い慕って涙に咽ぶ。そんな老人に寄り添い、付近の名所をともに見てまわる僧。やがて、僧とともに風雅のひとときを過ごした老人は、月影を宿した汐を汲むと、そのまま汐曇りの中に姿を消してしまう。実はこの老人こそ、融の幽霊であった。
その夜、僧の夢枕に現れた融の霊(後シテ)。融は、生前の遊興の日々を追憶し、今また舞の袖を翻す。やがて明け方、融は月光に誘われるまま、月の都へ帰ってゆくのだった。

ストーリーと舞台の流れ

1 ワキが登場します。

秋の半ば。東国から遥々の都路を志す、一人の僧(ワキ)があった。名高い京洛の風情を一目見るべく、思い立った旅の心に導かれ、海山を越えてゆくこの僧。夜を重ね、日を送り、程なく僧は都へと到着したのだった。
僧がやって来たのは、六条の辺り。聞けば、この地は“河原院”と呼ばれているという。僧はその由来を尋ねるべく、人の訪れを待つこととした。

2 前シテが登場します。

今宵は十五夜。東の空には、早くも月が姿を見せる頃。そんな中やって来たのは、汐汲みの桶を担ぐ、一人の老人(前シテ)であった。「古来人々に愛されたという、陸奥の塩竈浦に寄る舟の風情。しかし私のような寄る辺ない身には、それとても詮なきこと。そんな私の心を澄ませるのは、水面に映る月の影。ああ、思えば今宵こそ、秋の半ばであったのか——」 齢を重ね、総白髪をたたえたこの老人。彼は、粗末な衣の身に吹く秋風の寒さを思いつつ、荒涼としたこの地を見て感慨を催すのだった。

3 ワキは、前シテと言葉を交わします。

声をかける僧。聞けば老人は、当地の汐汲みだという。しかしこの京都は海辺でもなく、僧は不思議な返答に不審がる。老人は言う。実は河原院とは、昔の左大臣・源融の邸宅。融は、陸奥に名高い塩竈浦の致景を自らの屋敷に再現し、いつもそこに舟を浮かべて酒宴に興じていたのだった。その由緒を思えば、“汐汲み”とはまさに当地に相応しい存在なのだ。…老人はそう語りつつ、かつての邸宅跡を僧に案内する。

4 ワキは、前シテと詩の心を語り合います。

そのとき、目に留まったのは昇り来る月。池の小島では鳥が囀り、月はこの屋敷を照らし出す。「ああ、これこそ我が身のことよ…」 思わずそう呟く僧。僧が思い出したのは、古人の言葉であった。『鳥は池中の木に宿り、月下では一人の僧が門を叩いている』と、秋の夜を詠んだ詩の情景。その詩情を解した僧の一言に、老人ははっとする。思えば、塩竈の昔も古詩のいにしえも、いま眼前に広がる景色と同じこと。風が吹き抜け、霧立ち込める中秋の邸宅跡。さあ私も、昔に変わらぬ塩竈の姿を眺めようではないか…。

5 前シテは、河原院の昔物語を語ります。

——平安の初め。陸奥の塩竈浦の眺望を耳にした融大臣は、難波の海から汐を運ばせ、この池に塩竈浦の塩焼きの風情を再現した。それを一生の楽しみとした大臣。しかしその後は受け継ぐ人もなく、池は枯れ、雨の水溜まりに落葉が浮かぶばかりの、月さえ影を宿さぬ有様となったのだった。屋敷の荒廃を見て往時を偲び、紀貫之が手向けた一首の歌は、今の世にまで知られるところ。池は干上がり、寂れ果てたこの屋敷。ああ、在りし世の恋しいこと! 昔を慕えど、あの日々を願えど、どうしようもないのだ…。

6 前シテはワキに近隣の名所を教え、そのまま姿を消します。(中入)

この邸宅の来歴を語りつつ、泣き崩れてしまった老人。僧はそんな彼に寄り添い、当地から見える名所の数々を尋ねてゆく。その言葉に応え、古来より詩歌に名高い土地を教える老人。東山の山並み、南にひらけた淀川の眺望、向こうに見える西の山々…。
そうするうち、いつしか夜半。月下の情景に心奪われるままに、早くも時刻は過ぎようとしていた。汐を汲みはじめた老人。満たされてゆく桶には月が宿り、その光は老人の袂を濡らしてゆく。——そうして、老人は汐曇りのかなたへと、姿を消してしまうのだった。

7 アイが登場し、ワキに物語りをします。

そこへやって来た、この土地の男(アイ)。僧は男を呼び止め、河原院の故事を尋ねる。男の言葉に耳を傾ける僧。そうするうち、僧は気づく。実は先刻の老人こそ、源融の霊だったのだ。

8 ワキが待っていると、後シテが出現します。

なおも奇跡を見たいと願う僧。僧はその思いを胸に、夢の世界へと沈んでゆく。
その夢枕に現れた、一人の高貴な人影。「記憶のかなたにあった、遠い昔の思い出。しかし今また、そんな日々へと帰ってゆくよう。私こそ、貴方と共に今宵の月を見た、塩竈浦の浦人。それは、遥かのいにしえに名を遺した、公卿の君——」 この高貴な人物こそ、かの源融の幽霊(後シテ)であった。

9 後シテは、懐旧の舞を舞います(〔早舞〕)。

——あの頃。かの陸奥の塩竈浦に心を寄せた私は、邸内に造った小島の蔭に舟を浮かべ、遊宴に興じていた。そこで奏でられる舞は、月の都もかくやとばかり。それは、舞い上がる雪、輝き散ってゆく花のごとき、遊舞の数々だったのだ…。
在りし日の記憶に導かれた融。融は、高まりゆく心のまま、今また舞の袖を翻す。

10 後シテは、月の世界へと帰ってゆきます。(終)

月は、さまざまな姿を見せる。夕陽の中に薄らぐ朔月や、遠山に懸かる美人の眉のごとき三日月。あるときは月を小舟に譬え、水中の魚は釣針かと見まがい、雲上の鳥は弓かと驚く。——そんな月の情趣もひとしおの、秋の夜長。しかしそれも、間もなく明けようとしていた。鳥が鳴きはじめ、鐘の音が聞こえる時刻、月は早くも西へと傾く。その光に誘われるまま、融の幽霊は、月の都へと帰っていったのだった。

(文:中野顕正  最終更新:2023年03月02日)

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