公益社団法人 銕仙会
銕仙会能楽研修所
住所 〒107-0062 東京都港区南青山4-21-29
電話 03-3401-2285(平日 午前10時〜午後5時)
FAX 03-3401-2313
E-mail info@tessen.org
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埋もれ木の生涯を風雅に生きた、源三位頼政。しかし彼は、その人生の最後に臨んで、歴史に名を残すことになったのだった。終焉の地・平等院で見せる、老骨の矜持。
| 作者 | 世阿弥 |
| 場所 | 京都南郊 宇治の里 (現在の京都府宇治市) |
| 季節 | 仲夏 |
| 分類 | 二番目物 老武者物 |
| 前シテ | 老人 | 面:朝倉尉など 着流尉出立(一般的な老人の扮装) |
| 後シテ | 源頼政の霊 | 面:頼政 修羅物出立(鎧を身にまとった武将の扮装) |
| ワキ | 旅の僧 | 着流僧出立(一般的な僧侶の扮装) |
| 間狂言 | 土地の男 | 肩衣半袴出立(庶民の扮装) |
旅の僧(ワキ)が宇治の里に通りかかると、一人の老人(前シテ)が現れる。僧は老人に案内を請い、二人は里の名所を見てまわる。最後に老人は僧を平等院に案内すると、源平合戦の古蹟を見せ、今日がその合戦の日に当たるのだと教える。老人は、合戦で自刃した源頼政の回向を僧に頼み、姿を消してしまう。実はこの老人こそ、頼政の幽霊であった。
僧が供養していると、頼政の幽霊(後シテ)が往時の姿で現れ、僧の弔いに感謝する。頼政は、合戦へと至った経緯を語り、宇治川の合戦の緊迫した戦場の様子を再現して見せる。やがて、自らの最期までを語り終えた頼政は、供養を願いつつ消えてゆくのだった。
京都の南の郊外 宇治の里。この里は、京都と奈良とをつなぐ街道の中間に位置する景勝地であった。里を貫く宇治川はごうごうと音を立てて流れ、そのほとりには平等院が、この世の浄土を体現するかの如き荘厳な姿をたたえている。
そんな宇治の里へとさしかかった、一人の僧(ワキ)。諸国を旅してまわる彼は、京都から奈良へと向かう道中、この里を訪れたのであった。
古来より名所と謳われる、宇治の里の風情。僧があたりの景色を眺めていると、そこに一人の老人(前シテ)が現れた。「これこれ、お坊様、何をしておられる」
僧は老人にこの里の名所を尋ね、老人は僧を案内する。「これが槙の島、こちらが橘の小島…。おお、名にも似ず、朝日山から月が出てきましたぞ」 川を漕ぎゆく柴小舟、宇治の川霧におぼろけに見える里。二人は宇治の景勝を愛でるのであった。
次にやって来たのは平等院。見ると、芝が扇の形に刈り残されていた。老人は、この「扇の芝」の由来を語る。「昔、平家追討の旗をあげた高倉宮がこの寺で平家軍と戦われた折、宮方の武将・源頼政がこの地で扇を敷き、自害して果てた。ここが、その古蹟なのです」
折しも、今日がその合戦のあった日。「実は私こそ、この露の世に再び姿をあらわした、頼政の幽霊…」 そう告げると、老人は消えてしまうのだった。
そこへ、この土地の男(間狂言)が現れ、僧に尋ねられるままに源頼政の故事を語る。先刻の老人が頼政の霊だと確信した僧は、弔いのため、今夜はここに留まることにした。
夜。宇治川の川音が響きわたる中、僧は頼政の霊を弔い、深い眠りへと沈んでゆく…。
すると、彼の夢に、鎧兜に身をかためた一人の老武者(後シテ)が現れた。「流れ出る血は川となって流れゆく、壮絶な戦場のありさま。泡沫の如く儚きこの世で、つまらぬ争いをしていたものよ…」
「有難いお経の声。なおも、弔いを続けて下され」 武将は僧に言葉をかける。出家姿でありながら鎧兜を着た、この老武者。彼こそ、源頼政の霊であった。
僧は頼政と言葉を交わす。「ご安心下され、頼政どの。遍く行きわたる経典の功徳、この平等院の地で、貴方は成仏の身となることができるのです…」
頼政は改めて名を名乗ると、合戦に至った経緯を語り始める。
——あれは、治承四年の夏。私は、高倉宮様に挙兵を勧め、夜に紛れて都を脱出すると、近江へと落ちていった。ところが行く手には平家の大軍。私達は向きを変え、京都の南から奈良へと抜けていこうとした。昼夜を分かぬ旅路に、宮様は六度も落馬され…、私達はこの平等院で、暫し休息を取りつつ、宇治橋の橋桁を外して敵を待ち受けたのだった…。
——間もなくやって来た平家軍。源平両軍は川を挟んで対峙する。一騎当千の働きを見せる、源氏方の勇猛な武士たち。橋桁は外され、下は激流。攻めあぐねていた平家軍であったが、田原忠綱と名乗る武者が家臣を引き連れ、宇治川の激流へと馬を進める。川の流れを読みきった忠綱。彼は部下たちに的確な指示を出しつつ、ザッザッと馬を進め、遂にこちらの岸にたどり着いたのだった…。
——源氏方の武者たちはここを最期と定め、入り乱れて戦う。やがて息子たちも討たれ、私は覚悟を決めると、芝の上に扇を敷く。自刃の刀をかまえ、辞世の歌を詠むと、ついに自ら命を絶ったのだった…。
自らの死の様子を語った頼政。「どうか、亡きあとを弔って下され。こうして出会うことのできた縁に…」 そう言うと、彼は草葉の陰へと消えていったのだった。
源頼政(1104~1180)は、酒呑童子退治などで知られる源頼光の玄孫にあたる、平安末期の武将です。頼光の弟・頼信の玄孫にあたるのが源為義(源頼朝・義経らの祖父)なので、頼政は頼朝・義経らの遠い親戚ということになります。頼信から頼朝・義経らに至る系譜が河内国に本拠を置いたので「河内源氏」と呼ばれているのに対し、頼光から頼政に至る系譜は摂津国に本拠を置いていたので「摂津源氏」と呼ばれ、同じ清和源氏と言いながらも、両者は必ずしも一枚岩ではなかったようです。源義朝(頼朝・義経らの父)と平清盛が戦った平治の乱でも、頼政は義朝方ではなく清盛方の軍勢として戦っており、そのことで、平治の乱後にも頼政は滅亡を免れることができたのでした。
頼政は、天皇を悩ませていた怪物・
そのように、地味ながらも堅実に昇進してゆき、生涯で思い残すこともなくなったかに見えた頼政でしたが、治承4年(1180)、事態は急変します。
治承4年5月、後白河院の皇子の一人・
『平家物語』の中では、平家から
ところが、結果は以仁王・頼政側の敗北に終わります。上記「9」の場面で描かれているように、平等院での戦いに敗れた頼政は、遂に自刃して果てることとなったのでした。『平家物語』によれば、そのとき辞世として、次のような歌を詠んだといいます。
埋もれ木の花咲くことも無かりしに 身のなる果ては哀れなりけり
(地味なままであった我が人生、華やかなことなど無かったが、それなのにわが身がこうして果ててゆくのは、哀れなことだ。 …あたかも、花も咲かぬ埋もれ木に実がなるように。)
わが人生を振り返り、頼政は身の果てを悔やむのでした。
わが身の終焉を迎えてなお、歌を詠むことを忘れない、頼政の風雅心。堅実に生き、人生の最後に及んで歴史に名を残した老将の矜持を、お楽しみ下さい。
(文:中野顕正)
(最終更新:2017年1月)