銕仙会

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曲目解説

安達原(あだちがはら)

◆別名

 黒塚(くろづか)  ※他流での名称。

◆登場人物

前シテ 女  じつは鬼の化身
後シテ
ワキ 旅の山伏 東光房祐慶(とうこうぼうゆうけい)
ワキツレ 同行の山伏
アイ 山伏の召使い

◆場所

 陸奥国 安達原  〈現在の福島県二本松市〉

概要

奥州 安達原に到った山伏の一行(ワキ・ワキツレ)は、宿を借りようと一軒の庵を訪れる。一行を憐れみ、躊躇いつつも宿を貸した庵の女(前シテ)。女は一行の所望に応え、賤女の営みである糸車を使って見せつつ、迷いのままに生きてきた自らの過去を悔やむ。そんな彼女を慰める山伏たち。やがて彼女は、留守中に寝室を覗かぬよう言い遺すと、彼らに暖を取らせるべく、薪を集めに出かけてゆく。
その言葉に、つい出来心から寝室を覗いた一行の召使い(アイ)。するとそこには、人間の屍骸が積み置かれていた。実は女の正体は、この原の鬼であった。一行は逃げ出すが、裏切られたと知った鬼女(後シテ)が背後から迫る。しかし、一行の験力によって鬼女は調伏され、彼女は露わになった我が身を恥じつつ、夜嵐の中に消えてゆくのだった。

ストーリーと舞台の流れ

1 ワキ・ワキツレが登場します。

陸奥国 安達原。荒涼としたこの原を訪れる、山伏の一行があった。一行の主は東光房祐慶(ワキ)。熊野で修行を重ねていた彼は、このたび諸国巡礼を志したところ。彼は、同行の山伏(ワキツレ)を供に、日本列島を北へと旅していたのだった。
一行が到ったのは、古歌に名高いこの原。しかし折悪しく、早くも日は暮れてしまった。辺りはひっそりと静まりかえり、周囲には人家も見えぬほど。呆然とする一行だったが、見れば、遠くに火の光が揺らめいていた。一行は、その光の方へと向かってゆく。

2 前シテが登場します。

光のもとを訪れた一行。それは、一軒の粗末な庵であった。庵の内には、年闌けた女(前シテ)の身をかこつ声。「我が身に沁みる、秋の朝風。しかし胸中の休まる時はなく、日々は徒らに過ぎてゆく。眠っている夜の間だけが、わが生命を実感できる時間なのだ。本当に、侘び人の生きざまほど、儚いものは無いのだな…」。

3 ワキは、前シテと言葉を交わし、宿を借ります。

宿を借りたいと願う一行。女は粗末な庵の内を恥じて断るが、今宵一夜の仮寝のためと、一行はなおも願い出る。そんな一行を不憫がり、彼女は遂に、宿泊を許可するのだった。
雑多な草を混ぜ編んだ、賤しい筵。その上で横になっていると、露深く狭いこの侘び住まいが、肌身に沁みて感じられる…。一行は、そんな心安まらぬ夜を過ごすのだった。

4 ワキは、前シテに枠桛輪(わくかせわ)を使うよう所望します。

眠れぬままに、彼女と夜物語を交わす一行。見ると庵内には、見慣れぬ道具が置いてあった。聞けば、この道具は“枠桛輪”という、賤しい女の使う糸車であった。関心を示した一行。使うところを見せてくれと言う一行へ、女は、賤しい生業を見せることを恥じつつも、彼らの旅愁を慰めるべく、使って見せることとした。
月光の洩れ来る、庵の内。女は糸を繰りつつ、過ぎ去った日々に思いを馳せる——。

5 前シテは、糸を繰りつつ人生の空しさを嘆きます(〔クセ・糸之段〕)。

——悲しいかな。人の身と生まれながら、辛いばかりの生活に明け暮れて。それでも、心さえ正しい道を守るなら、救いはきっと訪れるはず。輪廻に迷うのも心ゆえ。仏道を願いもせずに生きてきた、今までの心が恨めしいけれど、それはどうしようもないこと…。
「光源氏の日蔭の糸冠に、葵祭の糸毛車。春の都の糸桜や、秋の月夜の糸薄。そんな華やかな糸の数々にひきかえ、こうして糸を繰る私の人生は、何ともつまらなく、長いばかりの日々でした…」 女は自らの人生を悔やみ、人目も憚らず咽び泣くのだった。

6 前シテは、薪を取りに出かけます。(中入)

やがて夜は更け、次第に肌寒くなってゆく時刻。女は山伏たちに暖を取らせようと、山へ薪を取りに行こうとする。
「や…、」 出がけに、思い出したように立ち止まる女。「私が戻るまで、決してこの寝室の内は、ご覧になりませんよう——」 そう言い遺した女。彼女は、決して覗くまいという一行の約束の言葉を喜ぶと、そのまま夜の闇に消えてゆくのだった。

7 アイは、ワキの隙を見て寝室の内を覗きます。

見るなと言われると、見たくなるのが人というもの。この様子を隣りで聞いていた山伏の召使い(アイ)は、先刻の女はどうも様子が怪しいと言い、寝室を見たいと言い出した。彼女との約束ゆえ、絶対に見てはならぬと叱る山伏。いったんは引き下がった召使いだったが、山伏たちが寝入るのを待ち、彼は寝室の戸を開く。すると、そこにあったのは…、

8 アイから寝室の様子を報告され、ワキ・ワキツレは逃げ出します。

召使いの悲鳴で目が覚めた一行。聞けば寝室には、腐爛した人間の屍体が積み上げられていたという。さては先刻の女こそ、かの名高い安達原の鬼だったのか。寝室の様子を確認した一行は、慌てふためく心のまま、足に任せて逃げてゆく。

9 後シテが出現し、ワキ・ワキツレと激しく争います(〔祈リ〕)。

夜の安達原をひた走る一行。しかし背後から、鬼の正体を現わした先刻の女(後シテ)が迫ってきた。「山伏殿、お止まりなさい。あれほど隠していた寝室の内を、見られてしまったその恨み。この憤りを、知って頂かずには居られようか——」 約束を破られ、一行に裏切られた彼女。鬼女の怒りは胸を焦がし、一行を喰らい尽くそうと襲いかかる。

10 後シテは祈り伏せられ、退散してゆきます。(終)

激しく争う、鬼女と山伏たち。しかしやがて、山伏の法力により、鬼女は祈り伏せられてしまう。戦いに敗れて弱り果て、足取りも覚束ない様子の彼女。「この原に今まで隠れ棲んでいたのも、こうして露わになってしまった。わが姿の何と浅ましく、恥ずかしいことよ…」 そう嘆く鬼女の言葉は、なおも凄まじく響きわたる。
その声を遺して、彼女は、夜嵐の中に消えてゆくのだった——。

(文:中野顕正  最終更新:2022年07月18日)

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