銕仙会

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曲目解説

海士あま
三日月の夜。母のルーツを尋ねて四国へと下ってきた房前大臣の前に、一人の海士が現れる。彼女が語るのは、大臣を生み、この地で亡くなったある海士の、世にも壮絶な物語であった…。
別名 他流では《海人》と表記 (読みは同じく「あま」)
作者 原作:金春権守(金春禅竹の祖父)周辺か
改作:世阿弥
場所 讃岐国志度浦 房前 (現在の香川県さぬき市志度 志度寺)
季節 仲春
分類 五番目物 女菩薩物

 

登場人物
前シテ 海士 面:深井など 水衣女出立(労働をする女性の扮装)
後シテ 龍女(房前の母の霊) 面:泥眼など 龍女出立(龍女の扮装)
子方 大臣 藤原房前(ふさざき) 風折長絹大口出立(貴族の扮装)
ワキ 房前の従者 素袍上下出立(貴人の従者の扮装)
ワキツレ 房前の従者(2‐3人) 素袍上下出立
間狂言 浦の男 長裃または肩衣半袴出立(庶民の扮装)

概要

奈良時代、藤原房前(子方)が亡き母の終焉の地であるという志度浦を訪れると、一人の海士(前シテ)が現れ、「房前はこの浦の賤しい海士の子である」と明かす。海士は、房前の母が龍王に盗られた宝珠を取り返すため海に潜り、自らの命と引き替えに珠を取り返したさまを再現して見せると、自分こそその母の霊であると明かし、海中へと消えてゆくのだった。
海士から去り際に手渡された手紙を開いてみると、そこには自分が冥途で苦しんでいることが綴られていた。房前が母のために供養をおこなっていると、龍女の姿と変じた母の霊(後シテ)が現れ、法華経の功徳によって救われる身となったことを喜び、成仏の奇跡を目の当たりにあらわすのであった。

ストーリーと舞台の流れ

1 子方・ワキ・ワキツレが登場します。

時は奈良時代。奈良の都から四国 讃岐国へと赴く、貴族の一行があった。一行の主は時の大臣・藤原房前(子方)。幼くして母と死別した彼は、その母の終焉の地が讃岐国の志度浦であると聞き、従者たち(ワキ・ワキツレ)を引き連れて同地へと向かう。物心ついた頃には既に母は亡く、あるのは近臣たちから聞かされた僅かな情報ばかり…。そんな母の面影を追い求め、房前は旅路を急ぐのであった。

2 前シテが登場します。

空には月の光が、一行をやさしく照らし出している。そんな夜、志度浦に到着した房前たちの前に、一人の海士(前シテ)が現れた。「雅びな和歌の世界にも詠まれた、海士の姿。伊勢の海士は月の秋を愛するといい、須磨の海士は源氏物語にも描かれたほど。それにひきかえ、興趣を添えるものもなき、この志度浦の海士の見苦しいこと。そんな鄙の里で賤しい生業を続ける、私のこの身…」。

3 ワキは前シテに声をかけ、二人は言葉を交わします。

房前の従者は彼女を呼びとめ、水底の海藻を刈ってくるように命じる。海士は空腹ゆえの所望かと思い、手にしていた海藻を献じようとするが、房前の意図はそうではなく、水面の月影を妨げる海藻を取り除けとの下命なのであった。
「ああ、昔もこんな事があった。やんごとなき方の下命を受けて龍宮から宝珠を取り戻したのも、この浦の海士だった…」 そう言いながら、彼女は海に潜ろうとする。

4 前シテは昔の海女の故事を語ります。

海士のつぶやいた意外な一言。気になった従者は彼女を呼び戻し、今の話を語るよう命じる。海士は、釈迦の像をおさめた宝珠『面向不背の玉』にまつわる故事を語りはじめる。
――藤原不比等の妹が唐の皇后となった折、唐から三つの宝が贈られた。ところがそのうち宝珠だけは、都へ運ぶ途上、この浦で龍に奪われてしまう。そこで不比等は忍び姿でこの浦に下向し、賤しい海士と契る。こうして生まれたのこそ、今の房前大臣…。

5 子方は自分の出生の秘密に驚き、詠嘆します。

房前は自らの出生の秘密を知って驚き、自分こそ房前であると明かす。「生まれてこの方、母を知らずに過ごしてきた日々。ある時家臣に尋ねると、『母君は、志度浦のあま…いえ、あまり申せば畏れ多いことで』と言葉を濁した。さては賤しい海士だったのか」。
そうはいっても母の恩。房前はこの海士に母の面影を重ね、まだ見ぬ母を懐かしむ。海士もまた、房前に浅からぬ縁を感じ、共に涙するのであった。
海士は房前の命を受け、彼の母が珠を取り戻した時の様子を再現しはじめる。

6 前シテは、房前の母が玉を取り戻した様子を再現します。(〔玉之段たまのだん〕)

――不比等は、珠を取り戻せた暁には房前を嫡子にすると約束した。母は、我が子の為に捨てる命と決心し、ひとり海へと入ってゆく。深い海の底、龍宮の中に珠はあった。周りには凶悪な龍たち。死を覚悟した彼女は故郷を懐かしみ、夫や我が子を思うのであった。やがて決心した海士は龍宮に飛び込み、珠を盗んで逃げてゆく。追いかける龍。しかし彼女が短剣で乳房を掻き切り、その中に珠を押し込むと、龍は穢れをおそれて近づけない。合図を受けた陸の人々は彼女の腰につけた縄を引き、海士は陸へと浮かび出たのだった…。

7 前シテは自分の正体を明かし、手紙に見立てた扇を子方に渡して消え失せます(中入)。

――悪龍に襲われ、見るも無惨な姿となった、虫の息の彼女。悲しむ不比等に、彼女は乳の辺りを見てくれと言う。そこにはしっかりと、光り輝く珠が入っていたのだった…。
「貴方の名を房前というのも、この地の名に因むもの。かく言う私こそ、その時の海士。あなたの母の幽霊なのです…」 彼女はそう告げると、自分の思いをしたためた手紙を房前に渡し、波の底へと消えてゆくのだった。

8 間狂言が登場し、ワキに物語りをします。

そこへ、この土地の男(間狂言)がやって来た。男は房前の従者に尋ねられるまま、珠を取り戻した昔の海士の故事を語る。それは、先刻の海士の言葉に違わぬ内容であった。房前は母の霊を弔うべく、法要の準備を始める。

9 子方は渡された扇を開いて母の手紙を読み、母を弔う法要を始めます。

房前は、先刻の海士から託された手紙を開き、読みはじめる。『黄泉国に赴いて、はや十三年。我が亡骸は土中に埋もれ、私を弔う人はいない。親を思う心があるならば、私の苦しみを、どうか助けてください…』 それは、疑うところなき、冥府で苦しむ母の言葉であった。房前は法華経を読誦し、母のために法要を始める。

10 後シテが出現し、〔早舞〕を舞います。

そのとき、読経の声に引かれ、海中から母の霊(後シテ)が現れた。死後、苦しみ多き龍女の身となっていた彼女。しかしそんな彼女にも、法華経の功徳によって救いの道がひらかれたのであった。彼女は法華経の経巻を広げ、高らかに読誦する。『十方世界を照らす、仏の功徳。その身体は清らかに彩られ、天の神々や人間、龍神までもが、その姿を仰ぐのである――』 彼女は、救われゆく身を喜び、仏法讃嘆の舞を舞うのであった。

11 現在へと続く志度寺の縁起が語られ、この能が終わります。

人々が目の当たりにした、女人成仏の奇蹟。以来、彼女の眠る志度寺では毎年、彼女の冥福を祈る法会が盛大に行われることになったのだった。これというのも、母を慕う房前の思いが起こした奇蹟なのであった――。

小書解説

・懐中之舞(かいちゅうのまい)

本作の後シテは法華経の書かれた巻物を手に持って登場しますが、通常の演出であれば、後シテが〔早舞〕を舞い始める時に子方に経巻を渡すところを、「懐中之舞」ではシテは経典を有難く押し頂く心持ちで胸に挿し、経巻を懐中したまま舞を舞い、舞い終わってからその経巻を子方に渡すという演出になります。経典の功徳によって海士の霊が救われた、その喜びを強調する演出で、この他にも装束や前場の型などが変わることがあります。

みどころ

本作の舞台となっている志度寺は、四国八十八箇所巡礼の札所の一つともなっている、由緒あるお寺です。この寺の来歴を記した作品に『志度寺縁起』(全7巻)があり、その第2巻にあたる「讃州志度道場縁起」が本作の典拠となっています。
「讃州志度道場縁起」の物語は、次のようになっています。

――奈良時代。大臣・藤原不比等は、父鎌足の追善のため、一つの寺を建立しようとした。中国の皇帝の后となっていた彼の妹は、この寺院建立を支援すべく、宝珠をはじめ様々な宝物を日本に贈る。しかしその使者が奈良へと向かう途上、志度浦の沖にさしかかった時、俄かに暴風雨となり、海底から伸びてきた龍の手が宝珠を奪っていってしまう。報せを受けた不比等は、ただただ嘆くばかりであった。
不比等は浦の海士と契りを交わし、三年の歳月が流れた。二人の間には一人の子も生まれ、彼女との宿縁もこれではっきりした。不比等は自らの正体を明かすと、奪われた珠を取り戻してほしいと懇願する。もとより無事ではいられない、決死の使命。しかし全ては愛する夫や子のため。覚悟を決めた海士は、わが子の将来を夫に託すと、海底へと向かうことを決意する。彼女は腰に縄をつけ、ひとり海へと入ってゆく。
暫くして縄が動いたので引き上げてみると、彼女は既に息絶えていた。珠を奪い返されたことに怒った龍王が、彼女を斬り裂いてしまったのだった。不比等が泣く泣く死骸をさぐっていると、乳房には大きな切り痕。珠は、その中に隠されていた。彼女の巧みな計略によって、その命と引き替えに、遂に珠を取り返したのであった。
その後、彼女の亡骸は現地に葬られて志度寺となり、珠は奈良の都へ運ばれ、不比等の建立した興福寺へと納められた。二人の間の子・房前は、彼女との約束通り、藤原氏の嫡子とされた。成長ののち、母のことを聞かされた房前が志度浦に下向すると、地底から声が聞こえてくる。それこそ、冥界で苦しむ母の声であった。房前は追善法要をおこない、母の冥福を祈る。これが、志度寺の法華八講の起源なのであった…。

この縁起では不比等と海士との情愛が物語のメインとされているのに対し、本作では夫婦の情愛にはほとんど触れられず、むしろ本来後日譚としての位置づけであった房前の物語が、本作では大きく描かれています。そしてその中で房前は、縁起では声を聞くのみであった母と、念願の対面を果たします。そんな母を慕う房前の思いが、本作のメインテーマであるといえましょう。

ところで、縁起の中では、すぐれた計略と機転とによってみごと宝珠を取り返した海士は、実は龍女の化身であったことが仄めかされています。とすれば彼女は、本来のすみかである龍の世界を裏切ってしまったことになります。そうして自らの身を犠牲にしてまで、人間界に宝をもたらしてくれた彼女。そんな存在として、海士は描かれているのです。
本作の後場においても、海士は龍女の姿で舞台上に出現し、房前の弔いを受けます。死後、本来の姿である龍女となって龍の世界に戻っていた彼女。そんな、死してなお続く苦しみの世界で、彼女は日々を過ごしていたのでした。
しかしそんな彼女も、房前の手向ける『法華経』の功徳によって、ついに成仏が叶います。『法華経』の提婆達多品(だいばだったぼん)という章には、海底に棲む八歳の龍女が経の功徳によって成仏したという物語が載せられており、そうした知識が本作では踏まえられています。八歳という子供の身であり、龍という畜生の身であり、そして救われ難いとされていた女人の身である、『法華経』の龍女。そんな、悟りを開く上での障碍を幾重にも背負った龍女ですら忽ちのうちに成仏させてしまうという『法華経』の功徳によって、房前の母の龍女もまた、救われてゆくのです。
舞台上に再生され、繰り返される『法華経』の奇跡。そんな奇跡の場面が、本作の後場では描かれています。
母を慕う房前の思いに応えて出現した彼女。死してなお海底で苦しんでいた彼女は、そんなわが子の弔いによって、ついに救われることができた…。本作は、そんな母子の愛情が起こした奇跡の物語となっています。

(文:中野顕正)

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(最終更新:2017年8月)

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