海士(あま)
◆別名
海人(あま) ※他流での表記。
◆登場人物
前シテ | 海女 じつは藤原房前の母の霊 |
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後シテ | 龍女(藤原房前の母の幽霊) |
子方 | 藤原房前(ふじわらのふさざき) |
ワキ | 藤原房前の従者 |
ワキツレ | 同行の従者 【2‐3人】 |
アイ | 土地の男 |
◆場所
讃岐国 志度浦 〈現在の香川県さぬき市志度〉
概要
奈良時代。幼少期に母と死別した大臣・藤原房前(子方)は、僅かな情報を頼りに、亡母終焉の地という讃州志度浦を訪れる。そこへ一人の海女(前シテ)が現れ、房前の母はこの浦の海女だったと明かす。房前の母は、わが子を藤原氏の嫡子とすることを条件に、龍王に奪われた秘宝“面向不背珠”を取り戻すべく海に潜り、自らの命と引き替えに珠を取り返したのだった。その様子を再現して見せた彼女は、自分こそ房前の母の霊だと明かすと、自らの思いをしたためた手紙を房前に渡し、海中に姿を消してしまう。
手紙には、冥途で苦しむ母の言葉が綴られていた。供養を始め、亡母に法華経を手向ける房前。するとそこへ、龍女の姿となった母の霊(後シテ)が現れた。彼女は、法華経の功徳によって救われたことを喜ぶと、女人成仏の奇蹟を目の当たりに顕わすのだった。
ストーリーと舞台の流れ
1 子方がワキ・ワキツレを伴って登場します。
奈良時代。奈良の都から四国 讃岐国へと遥々の旅路をゆく、貴族の一行があった。一行の主は、大臣・藤原房前(子方)。幼くして母と死別した彼は、その終焉の地が讃岐国の志度浦であったと聞き、従者たち(ワキ・ワキツレ)を引き連れて同地へと向かう。物心ついた頃には既に母は亡く、あるのは近臣たちから聞かされた僅かな情報ばかり…。そんな母の面影を追い求め、房前は旅路を急ぐのだった。
2 前シテが登場します。
時刻は夜。やさしい月の光に照らされて、志度浦へと到着した房前たち。そんな一行の前に、一人の海女(前シテ)が現れた。「雅びな古典の世界に詠まれた、海士たちの姿。伊勢の海士は月の秋を愛するといい、須磨の海士はかの源氏物語にも描かれたほど。しかしそれに引きかえ、この志度浦には興趣を添えるものもなく、そんな鄙の里で渡世に明け暮れる、この身の生業の賤しいこと…」。
3 ワキは前シテと言葉を交わします。
やって来た彼女を呼び止め、水底の海藻を刈るよう命じる房前の従者。空腹ゆえの所望かと、彼女は手にしていた海藻を献じようとする。しかし房前の意図はそうではなかった。水面に映る月影の風情を思い、妨げとなる海藻を取り除くよう命じる房前。その言葉に、海女は呟く。「昔もこんな事があった。高貴な方の下命を受けて海に潜り、龍宮から宝珠を取り戻したのも、この浦の海女だった…」 そう言いつつ、彼女は海に潜ろうとする。
4 前シテは、宝珠を取り戻した海女の故事を語り始めます。
海女が口にした意外な一言。気になった従者は彼女を呼び戻すと、今の話を語らせる。それは、藤原氏に伝わる秘宝“面向不背珠”をめぐる物語であった。「藤原淡海公の妹君が唐の皇后となった折、唐から三つの宝が贈られました。ところがそのうち珠だけは、都へ運ぶ途上、この浦で龍に奪われてしまいます。一計を案じた淡海公は忍び姿でこの地に下向し、賤しい海女と契りました。こうして生まれたのが、今の房前大臣なのです――」。
5 子方は自分の出生の秘密に驚き、詠嘆します。
初めて明かされた出生の秘密に、思わず声を上げる房前。彼は自らの名を明かすと、母への思いを口にする。「母を知らずに過ごしてきた日々。ある時家臣に尋ねると、『母君は志度浦のあま…いえ、あまり申せば畏れ多い』と言葉を濁した。さては賤しい海女だったのか」 たとえ賤しくとも、かけがえのない唯一の母。房前はこの海女に母の面影を重ねて懐かしむ。海女もそんな彼に浅からぬ縁を思って涙しつつ、物語の続きを語りだす。
6 前シテは、房前の母が宝珠を取り戻した様子を再現します(〔玉之段〕)。
――淡海公は、“珠を取り戻せた暁にはこの子を嫡子にしよう”と言いました。海女は決心し、ひとり海へと入ってゆきます。深い海の底、龍宮に建つ玉塔の中に、珠はありました。周りには凶悪な龍たち。死を覚悟した海女は夫やわが子を懐かしむと、覚悟を決めて龍宮へ飛び込み、珠を取って逃げてゆきます。襲いかかる龍。しかし彼女が短剣で乳房を掻き切り、その中に珠を押し込むと、龍は穢れを恐れて近づけません。そうする内、陸の人々は彼女の腰につけた縄を引き上げ、海女は陸へと帰還したのでした…。
7 前シテは自らの正体を明かし、姿を消します。(中入)
「引き上げられた彼女は、もはや虫の息でした。見るも無惨なその姿に、悲しむ淡海公。そんな彼へ、海女は乳の辺りを見てくれと告げます。そこにはしっかりと、光輝く珠が入っていたのでした――」 いま明かされる、房前出生の秘密。海女は言う。「かく言う私こそその時の海女、あなたの母の幽霊なのです…」 取り出したのは、自分の思いをしたためた手紙。彼女はそれをわが子に手渡すと、波の底へと消えてゆくのだった。
8 アイが登場して一行に物語りをし、その後、子方は追善法要を始めます。
そこへやって来た、この浦の男(アイ)。男は房前一行の求めに応じ、珠を取り戻した海女のことを物語る。その言葉に耳を傾けていた房前は、母の供養を決意した。
やがて法要が始まり、母の手紙を読みはじめる房前。『黄泉国に赴いて十三年。わが亡骸は土中に埋もれ、私を弔う人はいない。この苦しみを、どうか救ってほしい――』 今なお冥府で苦しむ母。房前はそんな母のため、懇ろに法華経を手向けるのだった。
9 後シテが出現し、法華経の功徳を讃嘆します。
そのとき、読経の声に導かれて、海中から母の霊(後シテ)が姿を現した。死後、苦しみ多き龍女の身となっていた彼女であったが、そんな彼女にも、今まさに救いの道が開かれたのだ。彼女は法華経の経巻を広げると、高らかに読誦しはじめる。『十方世界を照らす、仏の功徳。その身体は清らかに彩られ、神々や人間、龍たちまでもが、その気高き姿を仰ぐのである――』。
10 後シテは〔早舞〕を舞い、成仏してゆきます。(終)
救われゆく身を喜び、法華経の功徳を讃えて舞う彼女。その姿こそ、経典に説かれた釈尊在世の奇蹟にも等しき、女人成仏の姿であった。こうして目の当たりに顕わされた、救済の奇蹟。その光景を前に、法会に集う人々もまた、経の功徳を確信するのだった。
その後、この地に建つ志度寺では毎年、彼女の冥福を祈る法要が行われることとなった。母を慕う房前の思いは、時を超えて、今もこの寺に伝わっている――。
舞台写真
・2013年05月10日 定期公演「海士 懐中之舞」シテ:清水寛二