蟻通(ありどおし)
◆登場人物
シテ | 神職の老人 じつは蟻通明神の化身 |
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ワキ | 紀貫之 |
ワキツレ | 紀貫之の従者 【2‐3人】 |
◆場所
和泉国 蟻通神社 〈現在の大阪府泉佐野市〉
概要
醍醐天皇の御代。歌道を究めたいと願い、和歌の守護神である住吉・玉津島へと参詣に向かっていた紀貫之(ワキ)は、その途上、日暮れとともに俄かの大雨に遭遇する。暗闇の中、乗っていた馬まで倒れ込んでしまい、途方に暮れる貫之。するとそこへ、一人の老神職(シテ)が現れた。この地を通るとき、馬から下りなかったのかと言う神職。実はこの場所は、蟻通明神という祟りをなす神の聖域だったのだ。恐縮する貫之へ、和歌を詠んで神に捧げるよう促す神職。貫之が身の潔白を訴える歌を詠むと、その歌を納受した神慮によって、馬は再び息を吹き返した。神威の疎かならざることを知った貫之は、祝詞を捧げるよう神職に願い、神職は祝詞を上げて神楽を手向ける。やがて神職は、自分こそ神の化身だと仄めかすと、鳥居の陰に姿を消してしまうのだった。
ストーリーと舞台の流れ
1 ワキ・ワキツレが登場します。
平安中期。“延喜の聖代”と謳われた醍醐天皇の御代にあって、この国には和歌の道が次第に栄えはじめていた。中にも名高き歌人・紀貫之(ワキ)は、歌道の奥義を追い求め、和歌の守護神である住吉や玉津島の加護を願って参詣の旅に出発する。しかしその途上、早くも訪れた日暮れとともに雨が激しく降りはじめ、しかも彼の乗っていた馬は、力なくその場に倒れ臥してしまう。予期せぬこの事態に、貫之は途方に暮れてしまうのだった。
2 シテが登場します。
宵闇の中、耳に届くものは雨音ばかり。夕暮れに聞こえてきた鐘の音も、今はすっかり絶え果てた――。そんな中、暗がりの道の向こうから、灯火の光が近づいてきた。「宮寺には鐘の音や灯明の光があればこそ、神の威光は増さるというもの。ところが今、神前は暗く静まりかえったまま。神官たちは、いったいどこへ行ったやら。しかし社殿こそ暗くとも、神の光は隠れないのだ…」 灯火の主は、一人の老神職(シテ)であった。
3 ワキはシテと言葉を交わし、ここが蟻通神社の境内だと知ります。
神職に声をかける貫之。事情を話す彼へ、神職は、この地ヘ足を踏み入れるとき馬から下りなかったのかと言う。実はこの場所は、蟻通明神という祟りをなす神の聖域。暗がりに火をかかげて見れば、そこには確かに鳥居の影があらわれた。そうとも知らず、神域を馬で横切ろうとしていた貫之。彼はあまりの畏れ多さに、ただただ恐縮するのだった。
4 ワキはシテに促され、明神へ和歌を奉納します。
名を明かす貫之。神職は、貫之ほどの歌人ならば和歌を神へ捧げるよう促す。未だ歌道を究めること道半ばと、貫之は至らぬ身を恥じつつも、やがて一首の歌を案じ出した。『雨雲の立ち重なる闇の夜には、この地を照らす星の光は見えぬもの。蟻通の社に気づかないのも、無理なき事ではありませんか…』 蟻通を“有りと星”に掛け、機知を利かせて歌を詠みおおせた貫之。神職はこの歌に喜び、彼の潔白を認めるのだった。
5 和歌の徳が讃えられます(〔クセ〕)。
――この世の真理を体現する、和歌の姿。歌の道は神代の昔に始まり、いま人の世に至って、言の葉はますます繁り栄えてゆく。中にも貫之の編んだ『古今集』は、聖代に相応しき大事業。その彼が歌の力で身の潔白を訴えれば、神とて納受されぬはずはないのだ…。
祈りを捧げる貫之。するとそのとき、倒れていた彼の馬は起き上がり、元のように歩みはじめた。神の心をも和らげた、和歌の徳。この顛末に、人々は神慮を仰ぎ敬うのだった。
6 シテは祝詞を上げ、法楽の舞を捧げます(〔立廻リ〕)。
貫之の願いを受け、祝詞を上げる神職。『謹上再拝。神楽の舞を神へ捧げ、花を手向けて御心をお慰め致します。神慮をお慰めするためには、和歌の力に拠ることこそ最上。歌を吟じて舞を奏でれば、神楽乙女の翻す袖に、天岩戸の昔が思い出されることでしょう…』 人々の心も純朴であった、神代の昔。その昔より伝わる、舞歌の道の徳なのであった。
7 シテは、自らの正体を仄めかして消え失せます。(終)
「汝の深い心ばせに感じ入り、私はこうして、仮に姿を見せたのだ…」 そう告げつつ、鳥居のほとりで姿を消した神職。これこそは、歌道の奥義を伝える神の託宣だったのだ。貫之はこの神慮に喜ぶと、夜明けとともに、都へ帰ってゆくのだった――。