銕仙会

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曲目解説

江口えぐち
思えばこの世は仮の宿、心を留めてはならぬ——。 西行に仏の道を説き示した遊女は、普賢菩薩の化身であった。濁悪の世に苦しむ姿から一転、月光のもとで浄化された舞を舞う、高雅にして清浄な江口遊女の姿。
作者 世阿弥か
「8」の場面は観阿弥
場所 淀川のほとり 江口の里  (現在の大阪市東淀川区江口)
季節 晩秋
分類 三番目物 本鬘物

 

登場人物
前シテ 里の女  じつは江口遊女(えぐちのゆうじょ)の霊 面:増・若女など 唐織着流女出立(女性の扮装)
後シテ 江口遊女の幽霊 面:増・若女など 壺折大口女出立(遊女の扮装)
ツレ 侍女(2人) 面:小面など 唐織着流女出立
※一人は唐織を脱下ゲにする。(舟を漕ぐ女性の扮装)
ワキ 旅の僧 大口僧出立(やや格式ある僧侶の扮装)
ワキツレ 同行の僧(2人) 大口僧出立
アイ 土地の男 長裃出立(庶民の扮装)

概要

僧の一行(ワキ・ワキツレ)が江口の里を訪れ、いにしえ西行法師と歌問答をしたという江口遊女の墓前で西行の歌を口ずさんでいると、一人の女(前シテ)が現れ、「なぜ遊女の返歌を言わないのか」と言う。女は、“この世への執着を捨てよ”と西行に答えた遊女の返歌を明かすと、自分こそ江口遊女の霊だと明かし、姿を消してしまう。

その夜、僧たちの眼前に、川舟に乗った江口遊女(後シテ)が侍女たち(ツレ)を連れて現れた。遊女の川逍遥の姿を見せる彼女たち。江口遊女はこの世の無常を観じ、遊女を生業とする身のつらさを語りつつ舞を舞っていたが、やがて、それも全ては迷いの心ゆえだと述べ、この世界のすがたを見届けると、彼女はたちまち普賢菩薩の姿と変じ、西の空へ消えてゆくのだった。

ストーリーと舞台の流れ

1 ワキ・ワキツレが登場します。

仏道と、風流と。飛花落葉を見つめては儚き世の理を知り、西へ行く月にいざなわれては救いの光に思いを託す、そんな数寄と求道に生きる僧たち(ワキ・ワキツレ)がいた。移ろいゆく四季のすがたを追い求め、諸国を行脚してまわっていた一行は、この日、淀川のほとり 江口の里へとさしかかったところ。

それは、物寂しげな風情が辺りを覆う、ある秋の夕暮れのこと。

2 ワキはアイから江口遊女の旧跡を教えられ、遊女と西行法師の故事を偲びます。

僧は土地の男(アイ)に声を掛け、この里の名所を尋ねる。一つの石塔へと案内する男。「これこそ、いにしえの江口遊女の墓。彼女はかの西行法師と歌問答をした人で、まことは普賢菩薩の化身であったとか…」。

遊女の故事に思いをはせる僧たち。それは、宿を借りようとした西行が江口遊女に断られ、『世を厭わぬのは仕方ないが、一夜の宿まで惜しむとは』と詠み遺したという、古き世の物語であった。僧はその歌を口ずさみつつ、西行の昔を偲ぶ。

3 前シテが声を掛けつつ登場し、江口遊女の返歌のことを語ります。

そのとき、一人の女(前シテ)が僧を呼びとめた。「もうし、なぜ今の歌を口ずさむのです。物惜しみの女と語り継がれる、身の恥ずかしさ…。遊女の返歌をご存じないのですか」 はっとする僧。確かに遊女は歌を返していた。『貴方が世を厭う人ゆえ、仮の宿に執着しないようにと思ったまでです』――そう詠んだ江口遊女が西行に示したのは、“仮の宿”であるこの世へのまなざし。一行は遊女の返歌を偲び、その亡き跡を慕うのだった。

4 前シテは自らの正体を明かして消え失せます。(中入)

時刻は黄昏どき。川を背にした女の姿は、次第におぼろになってゆく。「実は私こそ、いにしえの江口遊女の霊。こうして、予期せず訪ねて来られた貴方と言葉を交わすのも、思えば何かのご縁なのですね…」 そう告げると、女は姿を消してしまうのだった。

5 アイが再登場し、ワキに物語りをします。

そこへ、先刻の男がやって来た。彼は僧たちに尋ねられるまま、江口遊女の故事を物語る。その言葉に耳を傾けていた僧たちは、更なる奇蹟を見たいと心に願うのだった。

6 ワキたちが待っていると後シテ・ツレが現れ、遊女の川逍遥の姿を見せます。

夜。清らかな月が波間に影を落とし、淀川の水は滔々と流れゆく。そんななか、経を手向ける一行の前に、遊女の屋形舟が現れた。月明かりの中、舟の中央に坐す人影こそ、かの江口遊女の幽霊(後シテ)。『浮世の夢に馴れ耽り、身の果てを思う暇もなき日々。別れゆく人を見送り、訪ねても来ない人を待つ、遊女の哀れな生きざま――』 彼女は侍女たち(ツレ)とともに遊女の身の上を謡い、月光の下、川逍遥をしていたのであった。

7 後シテ・ツレはワキと言葉を交わします。

遠い昔物語の中に生きる、江口遊女。そんな古人の姿に驚く僧たちへ、遊女たちは言葉をかける。「何事も、“いにしえ”に限ったことではありません。その昔の面影も、いま貴方の見ている光景も、全ては同じ世界の姿。ご覧なさい、月は昔のままに輝いているではありませんか…」 気ままに言葉を交わし、戯れる遊女たち。彼女たちは遊女の思いを謡に託し、月光のもと、たおやかに舞いはじめる。

8 後シテは無常の世の理を説きつつ舞います(〔クセ〕)。

――離合集散を繰り返す無常の世に、迷い続けるこの身の上。快楽に満ちた天界も、苦しみに喘ぐ悪道も、全ては菩提を妨げる。たまたま人の身を受けてなお、邪淫の罪を重ねる日々。風に衰える春の山や、霜に萎れる秋の林。そんな瞬く間に変わりゆく世界、それは、移ろい易き人の心も同じことなのだ。…そう知ってはいてもなお、愛を貪り続けずにはいられない、この身の性。妄執に迷い、罪作りに過ごす人生、それは誰しも同じこと――。

9 後シテは〔序之舞〕を舞い、やがて普賢菩薩と変じて消えてゆきます。(終)

月影を宿す川波はゆったりと流れゆき、留まるところを知らない。『波が立ち、苦しみが生まれる。それも全ては迷いの心ゆえ。惜しむ心を持たなければ、憂き世も無し…』。

思えばこの世は仮の宿、心を留めてはならぬ――。そう告げるや否や、江口遊女の身は純白の光を放ち、普賢菩薩へと変身した。川舟は白象の姿となり、辺りには白妙の雲がたなびく。その白雲に乗り移ると…、彼女は月光の中、西の空へと去っていったのだった。

(文:中野顕正)

近年の上演記録(写真)

(最終更新:2018年9月)

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