銕仙会

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曲目解説

ふじ

春は惜しまれつつも暮れてゆき、夏の訪れが予感される頃。北陸の浦では藤が水面に映って照り輝き、みずみずしい淡紫の花が芳しい。

作者 不詳 江戸時代初期の作か
十五世観世宗家・観世元章(かんぜ もとあきら) 改作
場所 越中国(現在の富山県) 多祜の浦(たごのうら)
季節 晩春
分類 三番目物 精天仙物
登場人物
前シテ 里の女 面:若女など 唐織着流女出立(一般的な女性の扮装)
後シテ 藤の精 面:若女など 天女出立(天人や花の精などの扮装)など
ワキ 旅の僧 着流僧出立(一般的な僧侶の扮装)
間狂言 土地の男 長裃出立(庶民の扮装)

概要

藤の名所である越中国多祜の浦を訪れた僧(ワキ)が、美しく咲く藤をながめて古歌を口ずさんでいると、女(シテ)が現れて僧の口ずさむ歌を咎め、もっと相応しい古歌があると教える。女は、自分はこの浦の名に負う花の精であると言って消え失せる。夜、僧の夢枕に藤の精(後シテ)が現れ、草木国土悉皆成仏の御法にひかれて僧のもとに現れたのだと教え、仏法に浴した喜びに舞を舞う。

ストーリーと舞台の流れ

1 ワキが登場します。

晩春の暖かな陽気のなか、北陸を旅する、ひとりの僧(ワキ)がいた。加賀国を立って信濃善光寺をめざしていた彼が、途中、藤の名所として有名な越中国 多祜の浦(たごのうら)に至ると、藤の花が日の光を浴びて、今を盛りと美しく咲いていた。
「これが有名な多祜の藤か。『おのが波に同じ末葉の萎れけり 藤咲く多祜のうらめしの身ぞ』…」 僧は、多祜の浦の藤を詠んだ古歌を思い出し、ひとり口ずさむ。

2 シテがワキに声をかけつつ登場し、言葉を交わします。

「もうし、お坊さま…」 僧が古歌を口ずさんでいると、どこからともなく一人の女(シテ)が現れた。「多祜の藤でしたら、『多祜の浦や汀の藤の咲きしより 波の色さへ色に出でつつ』という歌もございましょう。なのに、このような素晴らしい歌をもご存じなく、『同じ末葉の萎れけり』などと口ずさむとは…」 女は僧に、多祜の藤にまつわる古歌を教えて聞かせる。

3 シテは正体を仄めかして消え失せます(中入)。

それにしても、このように昔のことを語る女はいったい何者なのだろうか。
「実は私こそ、この多祜の浦の、名に負う花の精なのです…」 そう語った女は、夕暮れの空に雲が流れ、浦風に花がそよぐ頃、藤の花に添うようにして消えてしまうのであった。

4 間狂言がワキに物語りをします。

そこへ、この土地の男(間狂言)が現れ、僧に尋ねられるままに多祜の藤の故事を語る。先刻の女が藤の精の化身だと知った僧は、さらなる奇特を見ようと、今夜はここに留まる。

5 僧が待っていると、後シテが登場します。

夜。夢の世界へと沈んでいった僧のもとに現れたのは、月光に照らされた藤の精(後シテ)であった。この世界に起こるあらゆる現象は仏の真理のあらわれであり、自ら意志をもつことのない草木までもが成仏するという、草木国土悉皆成仏の教えに浴した彼女は、その喜びに歌舞を奏すべく、今宵、僧のもとに現れたのであった。

6 シテは、四季の移ろいと藤の花の情趣を語り舞います(〔クセ〕)。

──春。水の面には朧ろな月が映り、藤の花は露に濡れて深い色をたたえている。夏が来れば橘の香りがかぐわしく、秋には月の光も澄んで、やがては霜雪の美しい冬がやってくる。四季のうつろいの中で、自然はさまざまな姿を見せてゆく。そのなかで藤の花は、初夏に美しく咲き誇り、去りゆく春の形見として、深い情趣をたたえているのだ…。

7 シテは〔序之舞〕を舞い、やがて朝になって消えてゆき、この能が終わります。

藤の精は袖を翻して、月光に照らされ舞い戯れる。おだやかな浜風に、松にかかる藤の花がそよぎ、波はしずかに音を立てる、多祜の浦の春の夜。
やがて時も移り、空は白みはじめる。曙どきのやわらかな光に包まれて、藤の精は消えていったのであった…。

みどころ

晩春から初夏にかけて、淡紫色で胡蝶形の花を房状に咲かせる藤は、そのみずみずしい美しさゆえ古くから人々に愛され、その咲く季節から「暮れゆく春を惜しむ花」として、和歌などに詠まれてきました。
本作の初同(しょどう:コーラス隊である地謡が最初に謡う部分)に引かれている、

多祜の浦の 底さへ匂ふ 藤波を かざして行かん 見ぬ人のため

という歌は、『万葉集』巻第十九に登場する、次官(すけ)内蔵忌寸(くらのいみき)縄麻呂(なわまろ/本作中では「つなまろ」)の歌で、「多祜の浦の波の底までもが照り輝くばかりに美しく咲いている藤の花を、髪に挿して帰ろう。この藤をまだ見ていない人のために」という意味です。天平勝宝2年(西暦750年)の初夏、縄麻呂は大伴家持(おおとものやかもち)たちとともにこの多祜の地を訪れ、そこに咲く美しい藤の花を見た一行はその光景を歌に詠みましたが、この歌はその中の一首で、『和漢朗詠集』などにも採られ、後世の人々に愛唱されてきた歌なのでした。
この歌などを題材に、多祜の浦の水面に美しく照り映える藤の花の風情を舞台に匂わせ、去りゆく春を惜しみ、爽やかな夏の訪れを感じさせる季節感の情趣を表現することが、本作の眼目となっています。

(文:中野顕正)

近年の上演記録(写真)

(最終更新:2017年5月)

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