船弁慶(ふなべんけい)
◆別名
舟弁慶(ふなべんけい) ※他流での表記。
◆登場人物
前シテ | 源義経の愛妾 静御前 |
---|---|
後シテ | 平知盛の怨霊 |
子方 | 源義経 |
ワキ | 源義経の家臣 武蔵坊弁慶 |
ワキツレ | 源義経の従者 【3人】 |
アイ | 船頭 |
◆場所
【1~6】
摂津国 大物浦(だいもつのうら) 〈現在の兵庫県尼崎市大物町〉
【7~9】
瀬戸内海上 大物浦の沖
概要
兄頼朝と不和になり、西国へ落ち延びてゆく源義経(子方)の一行。その途上、大物浦に至った彼は、弁慶(ワキ)の進言を受け、これまで供をしてきた愛妾・静御前(前シテ)を都へ帰すこととする。別れを悲しむ静だったが、最後の酒宴に華を添えるべく、彼女は烏帽子を着して謡い舞い、義経の今の境遇を慰めつつ彼の前途を祈念する。静は、一行の門出を祝して健気に舞い納めると、出発してゆく一行を涙ながらに見送るのだった。
瀬戸内海へと漕ぎ出した一行の船。ところが、風雨は次第に激しさを増し、辺りはただならぬ雰囲気となる。そのとき、行く手の海上に平家一門の亡霊が現れた。総大将・平知盛(後シテ)をはじめ、一行に襲いかかる怨霊たち。しかし弁慶は懸命の祈りによって対抗し、一行は辛くも難を逃れるのだった。
ストーリーと舞台の流れ
1 子方がワキ・ワキツレを伴って登場します。
平安末期。さきの源平合戦では平家を壇ノ浦まで追い詰め、源氏を勝利へと導いた源義経(子方)も、その後は不遇の日々を送っていた。讒言を受け、兄頼朝と不和になってしまった義経。あくまで兄との正面衝突を避けたい彼は、弁慶(ワキ)や僅かな家臣たち(ワキツレ)を連れ、夜の都を落ち延びてゆく。それは、数年前の華々しい出陣とはうって変わっての、淋しい流浪の旅であった。
2 ワキはアイを呼び出して宿を借り、静御前の帰還を子方に進言します。
瀬戸内海の玄関口・大物浦に着いた一行。ここからは船で西へと下る算段だ。弁慶は知人の船頭(アイ)に船の手配を頼み、一行の休息所として彼の家を借りる。
ようやく腰を落ち着けた一行。そのとき、弁慶は義経に進言する。「これまで付き従ってきた静御前。しかし今のこの流浪の身には、似合わぬことでございます…」 彼女を都へ帰そうと提案する弁慶。そんな彼に、義経はただ「弁慶に任せる」と答えるのだった。
3 ワキは前シテを呼び出し、子方のもとへ連れてゆきます。
静の宿所へ向かう弁慶。弁慶は静(前シテ)を呼び出すと、都への帰還を指示する。なおも供を続けたいと嘆く静。彼女は、今の指示も弁慶の独断だろうと言い、直接返事をしようと義経のもとに向かう。ところが、義経が口にしたのもやはり帰還の指示。止むに止まれぬ義経の判断に、静はついに帰還を受け入れる。彼女は弁慶への非礼を詫びると、愛する義経との別れを悲しみ、再び会える日の来ることを願うのだった。
4 前シテは、一行の前途を祈念して謡い舞います(〔クセ〕)。
静に酒を勧める義経。それは、門出の酒宴に言寄せた、別れの盃であった。そんな彼に、静も旅の前途を祈念し、烏帽子を身につけて謡い舞う。
――昔、中国 越の王・勾践が仇敵を倒して覇者となれたのも、賢臣・陶朱公の補佐があればこそ。しかし陶朱公は恩賞を望むことなく、その後は俗世を離れて悠々自適の生活を選んだのでした。今の義経様も同じこと。報われない境遇をも悠然と受けとめ、身の潔白を申し開くならば、いつの日か、必ずや兄上との和解も叶うことでしょう…。
5 前シテは門出を祝って〔中之舞〕を舞い、悲しみつつ別れてゆきます。(中入)
「再び世に出る日は、必ずや、やって来るはずです。そう信じ続けている限り…」 愛する義経の前途を祈り、静は門出の舞を舞いはじめる。
やがて舞も終盤にさしかかり、別れの時刻がやって来た。船頭に一行の出発を合図し、健気に義経を見送る静。旅立ってゆく一行を見届けた彼女は、舞の装束をそっと脱ぐと、ひとり涙に沈むのだった――。
6 アイは船を用意し、一行は船に乗り込みます。
船の準備は整った。急いで出発しようとする一行だったが、義経は悪天候を懸念し、出発の延期を指示する。その言葉に異を唱える弁慶。今の判断は、定めて静への未練ゆえ。先年の合戦で屋島へ出陣した折も、暴風雨のなか船を出し、みごと勝利を収めたではないか…。弁慶はそう言うと、今日の船出を決行してしまう。
7 アイが船を漕ぐうち、次第に天候が悪化してゆきます。
瀬戸内海を西へ進む一行。ところが、船が沖へと進むにつれ、天候はますます悪化してゆく。高波に船は激しく揺れ動き、騒然とする船内。船頭は揺れを鎮めようと必死で櫂を操るが、波は激しさを増すばかり。異様な雰囲気に包まれた辺り一帯。そして…、
壇ノ浦で滅んだ平家一門の亡霊が、行く手の海上に現れた。
8 後シテが出現し、子方に迫ります(〔舞働〕)。
安徳天皇を中心に、勢揃いした平家一門の亡霊たち。やがて、その中でもひときわ禍々しい妖気を放つ、一人の武将が見えてきた。彼こそ、滅びゆく一門の全てを見届け、その運命を引き受けて壇ノ浦の藻屑と消えた、総大将・平知盛の怨霊(後シテ)であった。
「久しぶりだな、義経よ。そなたに追い詰められた我等の末路と同じように、今度はそなたを、海に沈めてくれよう――」 そう言うと、知盛は一行の船に襲いかかる。
9 ワキの祈りを受け、後シテは退散してゆきます。(終)
応戦する義経。しかし相手は亡霊、刀での対抗は不可能。弁慶は義経を制すると、数珠を押し揉み、法力によって撃退しようとする。祈祷を受けて、次第に遠ざかる亡霊の姿。必死で祈る弁慶に、船頭もまた、迫り来る怨霊たちを振り切るべく渾身の力で船を漕ぐ。
こうして、遂に亡霊の群れから逃げきった一行。あとには波の音だけが、そこには残っていたのだった――。