◆登場人物
前シテ | 女の霊 じつは静御前の霊 |
---|---|
後シテ | 静御前の幽霊 |
ツレ | 菜摘みの女 |
ワキ | 勝手明神の神職 |
アイ | 神職の下人 |
◆場所
【1】
大和国 吉野山中 勝手神社 〈現在の奈良県吉野郡吉野町吉野山〉
【2~3】
大和国 吉野山麓 菜摘川のほとり 〈現在の奈良県吉野郡吉野町菜摘 吉野川流域〉
【4~8】
大和国 吉野山中 勝手神社 [1と同じ場所]
概要
正月七日、吉野 勝手神社の神職(ワキ)の命を受けた女(ツレ)が七草を摘みに菜摘川へ行くと、一人の女の霊(前シテ)が現れ、自らを回向して欲しいと願う。名を尋ねられた霊は、疑う者がいたら女の体に憑依して名乗ろうと告げ、姿を消してしまう。
神社へ帰った女が事の顛末を語っていると、突如声色が変わる。先刻の霊が憑依したのだった。自らを静御前と名乗る憑霊に、まことの静ならば舞を舞うよう告げる神職。彼女が神社に伝わる生前の静の舞装束を着ていると、その背後に、在りし日の静の姿(後シテ)が現れた。往時の記憶を語り舞う二人の静。都落ちの果てにこの山へ迷い入り、やがてはそこからも落ち延びていった悲しみや、頼朝の前へ連れ出されて舞を強いられた苦しみを語った静は、辛いばかりの生前の日々を思いつつ、回向を願うのだった。
ストーリーと舞台の流れ
1 ワキ・アイが登場します。
早春の吉野山。都から程隔たったこの山には春の訪れはまだ遠く、冬の名残りをのこす冷たい風が、雪に埋もれた峰々の山あいを吹きぬけてゆく頃。
その吉野山に建つ勝手神社では、今日 正月七日は七草を神前へ供える御神事の日。神職(ワキ)は下人(アイ)を呼び出すと、菜摘みの準備を行うよう命じていた。
2 ツレが登場します。
下人に命じられ、菜を摘みに向かう女(ツレ)。彼女は白一色の山の風情を眺めつつ、雪に閉ざされた山路を急ぐ。「冬の間に積もった雪。しかし春とは名ばかりのこの雪の下にも、新しい生命の息吹は眠っている。そしてやがては、うららかな陽気の訪れを受けて、この隠された山道も再び現れる日がやって来る。そんな春の待ち遠しいこと…」。
3 前シテが声を掛けつつ登場し、自らの正体を仄めかして消え失せます。(中入)
菜摘川のほとりに着いた女。彼女が若菜を探していると、背後から一人の女(前シテ)が声を掛けてきた。「もうし、吉野山中の皆様へ言伝てがあります。余りに重き、死してなお残る私の罪業。どうか回向して下さいと、そう伝えて下さいませ。そこでもし疑う人がいた時には、私は貴女の体に乗り移り、名を明かすことと致しましょう――」。
雲が流れ、風が吹きすさぶ夕暮れ時。彼女はそう告げると、暗がりへ姿を消すのだった。
4 ツレはワキに事情を話しはじめますが、霊が憑依して突如口調が変わります。
肝を潰した女。遅い帰参を咎める神職へ、女は躊躇いつつも口を開く。「不思議な女に回向を頼まれ、どうも信じがたい事だったので申すまいとは思っていたのですが――」
顛末を語りはじめた女。そのとき、彼女の声色は一変する。「――なに、信じがたい? せっかく頼んだ甲斐もなき、この女の底性根の恨めしいこと…」 それは、先刻の女の霊が、彼女の体に憑依したのだった。
5 ツレに乗り移った霊の正体が明かされます。
「私は、源義経さまに仕えていた者――」 その霊の言葉に、義経の家臣たちの名を挙げてゆく神職。霊はその人々の思い出を語りつつも、それは自分ではないと言う。「――私は女。この山まで義経さまに御供し、この地で捨てられた時の悲しさ…。わが名を、静かに申し上げましょう」 それは、義経の愛妾・静御前の霊魂であった。
6 ツレが舞の装束を身につけていると、後シテが出現します。
まことの静ならば舞の名人。舞を舞って見せるよう告げる神職に、霊は生前使っていた装束を出してくれと頼む。神職が神社の宝蔵を開けてみると、見つかった衣は彼女の言葉に寸分違わぬものだった。彼女は装束を受け取ると、舞の支度をはじめる。
女の体を借り、昔手慣れた装束へと再び袖を通した静御前。往時を懐かしむ彼女の背後には、在りし日の静の姿(後シテ)が浮かびあがる。女の体にぴったりと寄り添う、静御前の幻影。二人の静は、生前の記憶を語り舞いはじめる。
7 後シテ・ツレは、逃避行の日々の記憶を語り舞います(〔クセ〕)。
――都を落ち延び、瀬戸内海へ漕ぎ出す義経一行を待ち受けていたのは、船を吹き戻す非情の嵐でした。天命に嘆きつつ、険しくなりゆく道中を越えて、吉野山に分け入ったのは春の盛り。しかし長閑ならざる不穏な空気に、やがてこの山からも去ることに。むかしこの地で雌伏の時を過ごした天武天皇に思いを馳せ、再び世に出る日を願いつつ、朧月夜の山路を迷う一行。その姿は風流の士のままながら、今は騒がしき吉野の山中。花を散らす風までもが敵の声かと聞きまがう、流浪の旅路なのでした…。
8 後シテ・ツレは辛い過去を偲んで〔序之舞〕を舞い、重ねて回向を願います。(終)
「それ以上に辛かったのは、頼朝の前に連れ出され、心ならずも舞を舞う身となった時のこと。そのとき私は、慕わしき義経さまを思いつつ、舞の袖を翻したのでした…」。
舞の中で心に蘇ってきた、在りし日の記憶。しかしそれは、苦しみと悲しみとに満たされた日々であった。今もなお心に残るものは、ついに日の目を見ずに散った義経への思い。そんな武士の世の無常を噛みしめつつ、静は回向を願うのだった――。