玄象(げんじょう)
◆別名
絃上(けんじょう) ※他流での表記。
◆登場人物
前シテ | 老人 じつは村上天皇の霊 |
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後シテ | 村上天皇の尊霊 |
前ツレ | 姥 じつは梨壺女御の霊 |
後ツレ | 龍神 |
ツレ | 藤原師長(ふじわらのもろなが) |
ワキ | 藤原師長の従者 |
ワキツレ | 同行の従者 【2‐3人】 |
アイ | 藤原師長の下人 |
◆場所
摂津国 須磨浦 〈現在の兵庫県神戸市須磨区〉
概要
琵琶の名人・藤原師長(ツレ)は、日本での名声に飽き足らず、唐土への旅を思い立つ。その途上、須磨浦に到った一行は、塩焼きの老人(前シテ)と姥(前ツレ)に宿を借りると、夜もすがら琵琶を披露して聴かせる。しかしそこへ夜雨が降りはじめ、雨音の障りを思った彼は手を止めてしまう。そのとき老人は、庵の板屋根の上に苫を葺いて雨音を穏やかにし、琵琶と同じ音色にすることで、演奏の障りとならぬようにした。師長は、音楽への深い洞察をもつ老人に感服し、琵琶を貸し与えて演奏を勧めると、自らの慢心を恥じて庵を抜け出そうとする。引き留める二人。実は二人こそ、彼の出国を思い留まらせるべく仮に現れた、琵琶の名器“玄象”のもとの持ち主、村上天皇と梨壺女御の尊霊であった。
やがて、真の姿を現した村上天皇(後シテ)。天皇は、かつて龍宮に奪われた琵琶の名器“獅子丸”を取り戻すべく、海底の龍神(後ツレ)を召す。龍神から名器を授けられた師長は、龍神たちとともに秘曲の数々を奏でると、都へ帰ってゆくのだった。
ストーリーと舞台の流れ
1 ツレ(師長)・ワキ・ワキツレが登場します。
平安末期。太政大臣・藤原師長(ツレ)は、音楽の道への志篤く、中でも琵琶を深く愛していた。その演奏の腕前は、天下無双の名をほしいままにするほど。日本での名声に飽き足らぬ彼は、さらに遠く大陸にまでその音色を響かせようと、唐土への旅を思い立つ。
従者たち(ワキ・ワキツレ)を引き連れ、都をあとにする師長。その途上、月の名所・須磨浦にさしかかった一行は、風雅の道への思いから、暫しこの地に滞在することとした。
2 前シテ・前ツレが登場します。
時刻は黄昏どき。夕陽の光に照らされた、浦から見晴るかされる瀬戸内海の島々。その風情は、この浦に塩焼く賤しき民までもが、感嘆の声を洩らすほど。まことに興趣の尽きることなき、須磨浦の致景の数々。
その落日の光の中に現れた、老人(前シテ)と姥(前ツレ)。汐汲みの桶を担い、年闌けた足取りで歩む二人は、浦の景色を眺めつつ、塩焼き小屋へと帰ってきたのだった。
3 ツレ(師長)は前シテ・前ツレと言葉を交わし、琵琶の演奏を所望されます。
帰ってきた老人へ、師長は一夜の宿を借りたいと願う。賤しき庵のさまを恥じ、辞退する老人。しかしこの須磨浦といえば、侘び住まいの地として名高い名所。なおも宿を願う師長へ、老人は、彼の琵琶を聴けるのならばと、宿を貸そうと申し出る。
先年、都での雨乞いの祈禱に琵琶を披露した師長。その音楽には龍神も感応し、遂に雨の恵みを得たという。以来“雨の大臣”の異名を取った、彼の妙技。その音色を、鄙の風情に添えて聴こうではないか――。
4 ツレ(師長)は琵琶を弾き始めます。
次第に更けゆく夜、琵琶を弾きはじめた師長。音色とともに思い出されるのは、『源氏物語』に描かれたこの浦の物語。都を追われた光源氏は、この浦で流謫の身を嘆きつつ、琴を弾いて思いを慰めたのだった。そのとき琴の音に交じって聞こえてきたのは浦の波。そしていま師長が琵琶を奏でれば、夜雨の音が聞こえてきた…。
5 演奏を止めたツレ(師長)へ、二人は小屋の屋根を葺き、その理由を明かします。
そのとき、手を止めてしまった師長。聞けば、雨の音が演奏の障りになったという。その言葉に、老人は姥を語らうと、苫を取り出して小屋の屋根に葺き、雨音に耳を傾ける。
不審がる師長へ、老人は意図を明かす。しっとりとした琵琶の音色を妨げる、板屋根を叩く雨の高い音。しかし屋根の上に苫を葺けば、雨音も穏やかになり、今の演奏と同じ音色になるはず…。その考えから、二人は苫を葺いたのだった。
6 前シテは琵琶を借りて演奏を始め、ツレ(師長)は忍んでこの小屋を抜け出します。
音楽への深い洞察をもつ老人に、すっかり感服した師長。師長は老人に琵琶を弾くよう勧め、最初は遠慮していた老人もやがて琵琶を奏ではじめる。その音色に添えようと、琴を持ち出して演奏に加わる姥。二人は、すっかり音楽に興じるのだった。
舌を巻く師長。彼は慢心していたわが身を恥じ、入唐を取り止めようと決意する。演奏に興じる二人を尻目に、彼は忍んでこの小屋を抜け出してゆく。
7 二人はツレ(師長)を呼び止め、自らの正体を明かして姿を消します。(中入)
出てゆく師長に気付いた二人。二人は彼を引き留め、この浦で夜を明かすよう勧める。すっかり恥じ入った師長は、今はひとまず都へ帰り、後日改めて訪れようと、二人の名を尋ねる。口を開く二人。実は二人こそ、琵琶の名器“玄象”のかつての持ち主、村上天皇と梨壺女御の尊霊であった。琵琶を愛する師長がこの国を出てゆくことを悲しみ、思い留まらせようと仮に姿を現した二人。…そう明かすと、二人は姿を消すのだった。
8 アイが登場し、状況説明をします。
奇蹟を目の当たりにした師長一行。下人(アイ)は事の顛末を振り返り、世にも不思議な今の体験に驚きを隠せぬ様子。一行は都への帰還を思いつつも、更なる奇瑞を見ようと、暫しこの浦に逗留することとした。
9 後シテが出現します。
やがて――。師長一行の前に、村上天皇の尊霊(後シテ)が真の姿を現した。平安時代、賢帝・醍醐天皇の皇子と生まれ、自らもまた名君となって天暦の聖代を成し遂げた村上天皇。彼は、その在りし日を回顧する。唐土から贈られた三つの琵琶のうち、龍宮へ奪われてしまった名器“獅子丸”。今こそかの琵琶を召し寄せ、再びその音色を奏でるとき。そう言うと、彼は遥かの海中に向かい、獅子丸を持参するよう龍神に命じる。
10 後ツレが琵琶を携えて出現し、後シテは〔早舞〕を舞って去ってゆきます。(終)
そのとき、琵琶をたずさえて海底から出現した龍神(後ツレ)。師長がかの琵琶を受け取って弾き鳴らせば、龍神たちも音楽を添える。奏でられる秘曲の数々に、天皇もまた、興に乗じて悦ぶのだった。
そうする内にも時刻は移る。龍神たちの曳く車に乗って、天高くへと飛び去ってゆく村上天皇。師長はそれを見送ると、琵琶を抱きつつ、都へ帰ってゆくのだった――。