
鉢木
作者
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未詳
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場所
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〔前場〕上野国 佐野の里 (現在の群馬県高崎市佐野)
〔後場〕相模国 鎌倉 北条時頼の邸宅 (現在の神奈川県鎌倉市)
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季節
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晩冬
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分類
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四番目物 人情物
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登場人物
前シテ
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佐野常世
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直面 素袍上下出立(武士の平服の扮装)
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後シテ
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同
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直面 斬組出立(戦闘姿の扮装)
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ツレ
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佐野常世の妻
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面:深井 唐織着流女出立(女性の扮装)
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ワキ
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旅の僧 じつは北条時頼
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〔前場〕着流僧出立(僧侶の扮装)
〔後場〕沙門帽子僧出立(格式ある僧侶の扮装)
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ワキツレ
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北条時頼の家臣
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梨子打側次大口出立(武将の扮装)
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オモアイ
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家臣の下人
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肩衣半袴出立(従者の扮装)
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アドアイ
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鎌倉からの伝令
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早打出立(伝令役の扮装)
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概要
厳冬の雪の中、上野国 佐野の里に到った旅の僧(ワキ)。僧は一軒の人家に宿を借りようとするが、帰ってきた亭主(前シテ)は窮乏ぶりを恥じ、一度は断ってしまう。しかし心残りに思っていた亭主は遂に決心し、去ってゆく僧を呼び止めると、わが家へ迎え入れる。亭主夫婦は、僅かに残っていた粟の飯を僧に提供し、秘蔵の鉢木を火にくべて僧のために暖を取ると、零落以前の日々を懐かしむ。佐野常世と名乗る彼は、一族に領地を奪われて今の窮乏に至ったと明かすと、それでも鎌倉に一大事とあらば真っ先に駆けつける所存だと語る。その覚悟を聞いた僧は、名残りを惜しみつつ別れてゆくのだった。
その後伝わってきた、非常事態発生の報せ。全国から集結してくる武士達に混じり、常世(後シテ)は鎌倉へ急ぐ。到着した彼は、執権・北条時頼からの呼び出しを受ける。実は時頼こそ、以前の僧の正体だったのだ。偽りならざる常世の覚悟を見届けた時頼は、かつての彼の本領を取り返し、さらに新たに領地を与えると、彼の心意気を讃えるのだった。
ストーリーと舞台の流れ
1 ワキが登場します。
厳冬の上野国 佐野の里。降りしきる雪に覆われたこの里には、春の訪れはまだ程遠い。そんな長く厳しい冬の寒さを、里人たちはじっと堪え忍んでいた。
その佐野の里へとさしかかった、一人の僧(ワキ)。信濃国で修行していた彼は、豪雪の冬を避けるべく、いちど鎌倉へ向かうところ。凍てつくような寒さの中、足元の覚束ない雪の山道を踏みしめ、彼は南への旅を続けていた。
2 ワキはツレに声を掛け、宿を借りたいと願い出ます。
わずかの晴れ間を得、佐野の里で休んでいた僧。しかし非情にも、またもや雪は降り出した。彼は宿を借りようと、近くにあった一軒の人家に向かう。
人家にいたのは一人の女性(ツレ)。一夜の宿を願い出る僧に、彼女は夫の留守中ゆえ約束はできないと言う。僧は亭主の帰宅を待って改めて宿を願おうと、暫しこの家に逗留する。彼女はそんな僧を気遣い、玄関先へ出て夫の帰りを心待ちにするのだった。
3 前シテが登場します。
そこへ帰ってきた、この家の亭主(前シテ)。強まりゆく降雪を眺めつつ、彼は力なく立ち尽くす。「雪の冬。今を栄える人々は、この一面の銀世界に心を動かし、冬の訪れを喜んでいることだろう。しかし世に忘れられた日陰者の私には、辛いばかりの鄙の雪。降る姿は昔のままながら、興趣も風情も尽き果てた、つまらぬ雪だ…」。
4 前シテはツレから事情を聞き、ワキの宿泊を断ります。
帰ってきた夫に、宿泊を願う僧がいると伝える妻。亭主はさっそく僧と対面する。まだ昼間とはいえ大雪に難渋した僧は改めて宿を願うが、亭主は余りに見苦しい家中のさまを恥じ、申し訳なく思いつつも僧の申し出を断ってしまう。「私たち夫婦さえ日を送りかねる、今の生活…。ここから暫く行けば、宿泊に適した里もあります。日の暮れぬうち、道中をお急ぎ下さい」 その言葉に失望する僧。彼は力なく、すごすごと家を後にする。
5 前シテはツレに促され、ワキを引き留めに行きます。
これで良かったのだろうか――。そう自問自答しつつも、僧を見送る夫婦。妻はぽつりと口にする。「思えば、今の貧しい生活も前世の行いゆえ。あのお坊様に助力してこそ、善行ともなりましょうもの…」 その言葉にはっとする亭主。この大雪の中、彼はまだ遠くへは行っていまい。亭主は雪の中を飛び出し、僧の跡を追ってゆく。
雪に道を見失い、路上で力なく佇んでいた僧。その姿に、亭主はいよいよ心を痛める。追いついた亭主は僧の手を引くと、優しくわが茅屋へ迎え入れるのだった。
6 前シテはワキを自宅に泊めます。
僧を招き入れた夫婦。しかし普段の生活にも事欠くありさま、客人に出せるものといえば粗末な雑穀の粟(あわ)が少しばかり。恥じ入る夫婦であったが、僧はそんな二人の志に感謝し、有難く頂戴する。零落の身を嘆く亭主。「世に栄えていた昔は、粟の名など詩歌の中でしか知らなかったものを…」 夢になりとも、昔の日々を見たいもの。静かに眠ることすら叶わぬ、夜風激しきこの鄙の里で、亭主は在りし日々を恋い慕うのだった。
7 前シテは鉢木を焚いて暖を取ろうと言い出します。
夜も更け、寒さはますます厳しくなってゆく。暖を取ろうと思えども、薪ひとつの蓄えもなし…。そのとき目に留まったのは、昔入手した三つの鉢木。他の鉢を全て他人に譲った後も秘蔵してきた物だった。しかし今や無用の品。亭主はこれで暖を取ろうとする。
思い留まらせようとする僧。もしも再び世に出たとき、後悔のほどはいかばかりか。そう宥める僧に、亭主は言う。「世に出る望みも絶え果てた、今のこの身。これを焚き、お坊様に供じてこそ、善行ともなりましょう…」。
8 前シテは鉢木を火にくべてゆきます(〔薪之段〕)。
積もった雪を払いつつ、鉢木を見つめる亭主。雪の中で花開く梅は、春の訪れを告げてくれた鉢。諸木に遅れて咲き出す桜は、手塩にかけて育てた鉢。みごとな枝ぶりを湛える松は、工夫を凝らした自慢の鉢。…そんな亭主鍾愛の鉢木も、今や薪となる運命。次々に火へとくべられてゆく、梅・桜・松の木。輝かしい過去の思い出や、来たるべき将来への期待を背負っていた木々たちは、まさに今、煙となって消えてゆくのだった――。
9 前シテは自らの名を明かし、武士としての覚悟を語ります。
亭主の懇志に感じた僧は、何かの時のためにと彼の名を尋ねる。佐野常世と名乗る彼は、一族に所領を奪われ、執権・北条時頼の留守中ゆえ訴訟も叶わず、今の生活へ追い詰められていたのだった。「しかし落ちぶれ果てた今なお、武士の嗜みは忘れていません。もし鎌倉に一大事があれば、破れ鎧に錆び長刀をひっさげ、痩せ馬で一番に駆けつけ討死する所存…!」 零落の今も、胸中にたぎる武士の血。しかしその思いとは裏腹に、徒らに朽ちゆくばかりの現実。常世は覚悟の程を吐露すると、非力なわが身を悔しがるのだった。
10 ワキは別れを告げて去ってゆき、続いて前シテ・ツレも退場します。(中入)
常世の話に同情する僧。「希望を捨ててはなりません、こうして私がいる限り…。もしも鎌倉へおいでの折はお越し下さい。この酔狂な坊主めが、必ずや力添え致しましょう。決して、将来を悲観してはなりませんよ」。
早くも出発の時刻。夫婦はこの先の旅宿を心配し、僧に暫くの逗留を勧める。その言葉に感謝しつつも、旅立ってゆく僧。一同は名残りを惜しみつつ、別れを告げるのだった。
11 アドアイが登場し、一大事の旨を告知します。
それから暫く経ったある日。一大事を告げる伝令(アイ)が、この里にもやって来た。聞けば、鎌倉はいま非常事態。伝令は、各地の武士達に集結するよう告げて廻る。
12 ワキがワキツレ・オモアイを従えて再登場し、次いで後シテが登場します。
その頃――。鎌倉では執権・北条時頼(ワキ)が、武士達の参集を今や遅しと待っていた。
やがて続々と集まってきた、数多くの武士達。その中には、あの佐野常世(後シテ)の姿もあった。きらびやかな鎧兜に身を固めた他の人々にひきかえ、彼の姿は破れ鎧に錆び長刀。他人の物笑いも何のその。常世は痩せ馬に鞭打ち、鎌倉へと馳せ参じてきたのだった。
13 ワキは後シテを呼び出させます。
鎌倉の御所へ集結した武士達。時頼は家臣(ワキツレ)に、破れ鎧姿の武者を呼び出すよう命じる。家臣が下人(アイ)に捜させていると、目に留まったのが常世であった。御前へ出るよう告げられた常世。予期せぬ命令に戸惑いつつも、彼は覚悟を決める。やつれ果てた姿への周囲の嘲笑にもめげず、彼は御前に進みゆく。
14 ワキは自らの正体を明かし、後シテに所領の安堵状を与えます。
進み出た常世に声を掛ける時頼。「常世、この私だ。見忘れたか」 顔を上げる常世。何と時頼こそ、以前泊めた僧の正体であった。恐縮する常世に、時頼は続ける。「今回の召集は、そなたの志を確かめるため。理非をただす訴訟のはじめ、以前の言葉に偽りなく鎌倉へ馳せ参じたそなたへ、もとの領地を認めてやろう。さらに、あの雪の中もてなしてくれた鉢木の礼には、その時の木々に因み、梅田・桜井・松井田の地を与えようぞ――」。
15 後シテは安堵状を押し頂き、本領へと帰ってゆきます。(終)
安堵状を与えられた常世。艱難辛苦の甲斐あって今日のこの日を迎えた彼は、その喜びに涙する。物笑いにしていた人々よ、これを見たか――。ようやく武士の一分を取り戻した彼は、誇らしげに御前を退出する。
やがて、鎌倉から解散する武士たち。常世はその一群に混じりつつ、喜び勇んで故郷へと帰ってゆくのだった。
今後の上演予定
(最終更新:2018年10月)