肥後国 岩戸山に籠もって修行する、一人の僧(ワキ)。彼のもとには、一人の老女(前シテ)が毎日やって来ては、仏前に供える水を捧げていた。ある日、僧が老女に名を尋ねると、彼女は『後撰集』に見える歌人・檜垣の女の霊と名乗る。彼女は、年老いて白川のほとりに住んでいた折に藤原興範に水を請われ、歌を詠んだことを語ると、白川で自らを弔ってくれと頼み、姿を消すのであった。
僧が白川を訪れると、女の霊(後シテ)が年老いた姿で現れ、消えやらぬ執心ゆえに今なお地獄で水を汲み続けているのだと明かす。彼女は、興範に請われて老残の舞い姿を見せた思い出を語り、舞を舞うのであった。
1 ワキが登場します。
肥後国 岩戸山。山腹の岩洞に観音を祀るこの山は、人里遠く離れた、幽閑な霊地である。山頂から周囲を見わたせば、別天地の如き光景が、遙か遠くにまで広がっている…。
この山中で修行する、一人の僧(ワキ)がいた。彼には不可解なことがあった。この人跡絶えた山中まで、百歳にもなろうかという老女が毎日水を供えに来ていたのだった。彼は、今日こそ彼女の名を尋ねようと待っている。
2 前シテが登場します。
その頃。水桶を手に、薄暗い山道を歩む、一人の老女(前シテ)がいた。「月を映す白川の水。その水を汲む私の袖は、涙に濡れたまま。それはまるで、月の光を受けたよう。こんな罪深い私でも救われる日が来ようかと、水を運び、仏さまに結縁する毎日…」 老いの衰えにやつれ果て、露の命も間もなく尽きようかという彼女。杖にすがり、苔の道を踏みしめつつ、とぼとぼと歩みを運ぶのであった。
3 前シテはワキと言葉を交わします。
僧のもとを訪れた老女。高齢の身で嶮しい山中まで通う彼女を僧はいたわるが、彼女はこれも罪滅ぼしだと述べ、後世を弔うよう願うのであった。
水を届けた老女は帰ってゆこうとするが、僧は彼女を呼び止め、名を名乗るように言う。口を開いた彼女は、思いも寄らぬことを語りはじめた…。
4 前シテは自らの正体を明かし、作リ物の中に消え失せます(中入)。
――いにしえの『後撰集』に載せられた、「檜垣の女」の歌。その女こそ、老女の正体。若き頃は九州随一の都市・太宰府に居を構え、遊女として華やかな日々を送っていた彼女も、老い衰えて後はこの白川のほとりで、ひっそりと暮らしていた。そこへ通りかかった藤原興範(おきのり)に水を所望され、歌を詠んだのであった…。
「どうか白川で、私を弔って下さいませ…」 そう告げると、老女は姿を消すのだった。
5 間狂言が登場し、ワキに物語りをします。
そこへ、この山の麓に住む男(間狂言)がやって来た。彼は僧に尋ねられるまま、いにしえの檜垣の女の故事を物語る。僧は、先刻の老女が女の霊だと確信するのだった。
6 ワキが弔っていると、後シテが作リ物の中で謡い出します。
老女の言葉に従い、白川のほとりへと向かう僧。夕暮れの薄暗がりの中、辺りには川霧が立ちこめていた。そばには、人家の明かりがほのかに揺らめく。その中から、語りかけてくる声があった。「老少不定は世の理。人生の盛りに命の花を散らす者、年老い朽ち果ててなお土に還ることのできぬ者…。有為転変の世の中、人間の運命など、誰にも分からないのです」。
7 作リ物の中から後シテが出現し、ワキと言葉を交わします。
それは、先刻の老女の声であった。やがて姿を現した彼女(後シテ)。若き頃の美貌は消え失せ、衰え果てた今の姿。水によって名を留めた彼女は、その執心によって、今なお冥界で水を汲み続けていた。煮えたぎる桶、炎に包まれた滑車…。地獄の焦熱は彼女を焼き苦しめるが、それでもなお、水を汲まずにはいられないのだった。
「有難いこと…。お坊様の弔いによって、火焔は少し和らぎました。因果の水を汲み尽くし、救われる身となりましょう」 月光の照らす白川の地。彼女は水を汲みはじめる。
8 後シテは水を汲み、いにしえ藤原興範と言葉を交わした時のことを語り舞います。
――釣瓶の縄を手繰り寄せ、過去の記憶と向きあう彼女。華やかな日々は瞬く間に過ぎてゆき、美貌は儚くも衰えゆく。一世を風靡した遊女の面影は既になく、わが姿を水に映せば、翠(みどり)の黒髪は水底の藻屑と変わり果てた…。
「あの日、この地を訪れた藤原興範さまは、私に一曲を所望されました。朽ち果てた身には叶わぬこと、昔のような舞は舞えない…。私は、ただただ当惑するばかりでした」。
9 後シテは、藤原興範に舞を見せた往時を偲び、再現して見せます(〔序之舞〕)。
「――重ねて所望される興範さま。『そうは言っても昔慣れ親しんだ舞、舞えないとは言えまい』と、頻りに仰せになられるので…、恥ずかしながら、私は舞いはじめたのです」。
興範に見せた、老残の舞い姿。彼女は昔を偲び、いま再び、弱々しくも舞いはじめる。それは、かつて世に栄えた檜垣の女の、なれる果ての姿であった。
10 後シテはワキに回向を願い、この能が終わります。
「絶え間なく回り続ける、水汲みの滑車。そのように廻りゆく“時”を巻き戻し、昔の日々よ、再び帰ってきておくれ…」。
永劫回帰する時間のなかで、妄執の水を汲み続ける彼女。終わりなき因果の環からの救済を願いつつ、今日もまた、老女は水を運ぶのであった――。