氷室(ひむろ)
◆登場人物
前シテ | 氷室守の老人 じつは氷室の守護神の化身 |
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後シテ | 氷室の守護神 |
前ツレ | 氷室守の男 じつは神の眷属 |
後ツレ | 天女 |
ワキ | 亀山天皇の臣下 |
ワキツレ | 臣下の従者 【2人】 |
アイ | 神職 〔または、眷属の神〕 |
◆場所
丹波国 神吉氷室 〈現在の京都府南丹市八木町〉
概要
晩春のある日。亀山天皇の臣下(ワキ・ワキツレ)が丹波国 氷室山を訪れると、山蔭は今なお冬の冷気を湛えていた。そこへ現れた、老人(前シテ)と若い男(前ツレ)。聞けば、毎年夏に帝へ献上される氷は、当地の氷室から運ばれるという。二人は、氷室の管理者であった。春や夏になっても氷が溶けないのは、帝の威徳ゆえ。老人はそう語ると、天下を照らす帝の威光を讃歎する。やがて彼は、この氷室は当地の神々が守護しているのだと明かすと、その様子を見てゆくよう勧め、姿を消す。実は彼こそ、神の化身であった。
やがて、一行の眼前には天女(後ツレ)が降臨し、舞を舞って氷室の神事に華を添える。そこへ現れた、氷室の守護神(後シテ)。守護神は、冷たい神風を吹かせて神威を顕現させると、帝へ献上される氷を祝福し、都への道中に加護を与えるのだった。
ストーリーと舞台の流れ
1 ワキ・ワキツレが登場します。
鎌倉時代後期、亀山天皇の御代。丹後の天橋立訪問を終えた臣下たち(ワキ・ワキツレ)は、若狭路を歩みつつ、都への帰途についていた。津田の入江を過ぎ、青葉の山、後瀬の山を越えてゆく一行。折しも、新緑の美しい晩春の候。やがて氷室山へとさしかかった一行は、この地で暫し、足を休めることとした。
2 前シテ・前ツレが登場します。
雪かと見まがう花びらが、次第に散り積もってゆく春の暮れ。しかし深谷の奥の氷室は、緑を湛える木々の蔭で、今なお冬の風情を留めている。耳に届くものは、雪解け水の滴る音。思えばこの雪こそ、豊かな稔りの予兆なのだ——。
そんな中、この谷蔭にやって来た老人(前シテ)と若い男(前ツレ)。二人は、この地にある氷室の管理者であった。
3 前シテは、氷室の由来をワキに語ります。
老人に声をかける臣下。聞けば、毎年夏に帝へ献上される氷は、この氷室から運ばれるという。初めて見る氷室のさまに、興味を示す臣下。老人は、氷室の由緒を物語る。
「仁徳天皇の御代。晩夏のある日、狩りに出ていた帝は、ある森の中で冬のような寒風を覚えました。傍らの庵を覗くと、屋内には雪を貯め込む一人の老人。老人は、これこそ仙家の薬よと明かします。こうして、夏の氷を献上する風習は始まったのです」。
4 前シテは、溶けることのない氷の徳を明かします。
上代よりこのかた、氷室が設けられた土地の数々。そうして今では、この桑田郡に定められた。木々が鬱蒼と茂る山の奥、日射しもさぞ遮られるだろう。そう呟いた臣下へ、老人は言う。「帝の御威光が普ねく行きわたる世の中で、どうして日光の至らぬ土地がありましょう。『新春を迎えた今日、吹き来る春風に、凍てついた氷も解かれるのだ』とは古歌の言葉。氷が溶けずに残るのは、帝へ献上するがゆえの威徳なのです——」。
5 前シテは帝の徳を讃え、氷室守の役目を誇らしげに語ります(〔クセ〕)。
——国土の隅々にまで行きわたる、帝の御威光。しかも日の光は仏法の恵みの表れでもあり、そのうえ陰陽二道の中にも、陽の気は四季の運行を助けています。それでもなお、夏まで消えないこの氷。さては春風も、この氷を避けて吹くのでしょう。それこそは君の御恵み。私は賤しい身ながらも、帝へ氷を献じ、御尊顔を拝する栄誉を賜りました。冬は雪を掻き集め、夏は氷室の封を開く、それが私の役目なのです…。
6 前シテ・前ツレは、氷室の神事を予告して姿を消します。(中入)
その話に感嘆し、さっそく帝のもとへ帰ろうとする臣下。しかし老人は、暫し留まるよう勧める。「氷室を守護する、この山の神や木々の神たち。実は神々は毎夜、この氷室を祀る神事を勤めているのです。せっかくの機会、今宵の神事を、ご覧になって行って下さいませ——」 その声とともに、辺りは宵闇に包まれた。冷たい風が吹き始め、季節外れの雪が舞い降りる、氷に覆われた銀世界のなか。老人は、氷室の内に姿を消すのだった。
7 アイが登場します。
そこへやって来た、この氷室を祀る神職の男(アイ)。彼は、このたび当地を訪問した臣下をもてなすべく、神託を受けてやって来たのだった。彼は、古代から続く氷室の由緒を物語ると、雪を願う歌を謡い、舞を舞って神に捧げる。
8 後ツレが出現し、舞を舞います(〔天女舞〕)。
やがて——。天空から不思議な音楽が聞こえはじめ、一帯は霊妙な雰囲気に包まれた。美しい調べに乗って現れた、一人の天女(後ツレ)。天女は、常盤の緑を湛える木々の間を飛び廻り、氷室に捧げられた供物の数々を祝福しつつ、舞の袖を翻す。
9 後シテが出現し、神威のほどを見せます(〔舞働〕)。
そのとき。天地は激しく震動し、冷たい風が吹きすさぶ。やがて現れた、氷を捧げ持つ一つの影。それこそは、この氷室の守護神(後シテ)であった。
見渡す限りの、冴え輝く氷の世界。それは月の光のごとく、または万物を映し出す鏡のよう。飛びめぐる雪や霰のなか、守護神は、深い井の底に貼りついた氷塊を引き剥がすと、神風に乗って神威を顕現させる。
10 後シテは、献上される氷を祝福します。(終)
この氷こそ、忝なくも帝への献上の品。思えば氷とは、波を鎮め、水を静め、世の乱れを治める品なのだ。封じられた氷室の中で、夏までの長い月日を待ち続ける氷。さあ、そんな氷室に供物を捧げ、舞を奏でて祝福しよう——。守護神はそう宣言すると、日射しを防ぎ、寒水冷風によって氷を守りつつ、都への道中に加護を与えて言祝ぐのだった。