銕仙会

銕仙会

曲目解説

井筒いづつ

作者

世阿弥

場所

大和国 石上(いそのかみ)の里 在原寺

(現在の奈良県天理市櫟本町 在原神社)

季節

晩秋

分類

三番目物 本鬘物

登場人物

前シテ

女  じつは紀有常の娘の霊

面:若女など 唐織着流女出立(女性の扮装)

後シテ

紀有常の娘の幽霊

面:若女など 初冠長絹女出立(男装の女性の扮装)

ワキ

旅の僧

着流僧出立(僧侶の扮装)

アイ

土地の男

長裃出立(庶民の扮装)

概要

旅の僧(ワキ)が大和国 石上の里を訪れると、在原寺の境内で一人の女(前シテ)に出会う。庭の片隅にある塚へ花水を手向けていた彼女は、これこそ在原業平の墓だと教えると、業平と紀有常の娘との夫婦の愛の物語を語り、幼馴染みであった二人が小さい頃に井戸へ面影を映しあっていた故事などを教える。やがて女は、自分こそ紀有常の娘の霊だと明かすと、姿を消してしまう。

やがて夜も更けた頃。有常の娘の霊(後シテ)が、僧の夢に現れた。業平の形見の衣をまとって現れた彼女は、愛する夫との一体感に浸りつつ、高まりゆく恋慕の思いから舞いはじめる。その中で遂に感極まり、思い出の詰まった井戸へ向かう彼女。水に映る面影を暫し見つめていた彼女は、幸せな日々を懐かしみつつ、そのまま消えてゆくのだった。

ストーリーと舞台の流れ

1 ワキが登場します。

大和国 石上の里。それは、むかし紀有常の娘と契りを交わした在原業平が、夫婦の住処としていた地。そして、その昔物語の愛の余香は、今なおこの里に漂っていた――。

その里を訪れた一人の僧(ワキ)。巡礼の旅の途上、大和盆地を南下していた彼は、この地に建つ在原寺の風情に感慨を催す。さきに見た大伽藍の数々とは対照的な、閑寂なその佇まいに、彼は業平の往時を偲ぶのだった。

2 前シテが登場します。

折しも秋の夜長。ひっそりと静まりかえった古寺の境内に、かすかな月光が射し込んできた。傾く軒には草が茂り、松の梢を冷たい風が吹きぬけてゆく、在原寺の庭の様子。

そこへ、一人の女(前シテ)が現れた。仏に捧げる水桶を手に、今暁もまたやって来た彼女。「待つあてもなく、心にあるのは過ぎていった日々の記憶。ただ頼むものは仏の導き。月が流れゆく西の山こそ、わが思いの向かう先。…とはいえ、四方に広がる秋のすがたに私の心は移ろいゆき、浮世の夢を覚ます日はまだ遠く――」。

3 前シテはワキと言葉を交わします。

庭の片隅に建つ塚へ花水を手向け、静かに祈りを捧げる女。実はこの塚こそ、在原業平の墓であった。さては業平の縁者かと疑う僧に、女は言う。「業平様は、平安朝の昔にすら『昔男』と呼ばれた程の人。ましてや遥かに時の流れた今、その彼にご縁など…」 業平の名ばかりは世に留まり、寺は次第に朽ちてゆく。いつしか薄の生え出た塚、荒れ増さる庭の面。草葉の露に明滅する淡い光を眺めつつ、女は在りし日々を慕うのだった。

4 前シテは、在原業平と紀有常の娘の故事を語りはじめます。

懐旧の念を催した彼女は、業平夫婦の昔物語を語りはじめる。「昔、この里で月日を送り、紀有常の娘と契りを交わしていた業平様。しかし移り気な彼は、高安の里の女へも忍んで通うようになりました。それでも嫉妬する素振りを見せず、ひたみちに夫の身を案じ続けた有常の娘。その甲斐あって、業平様の心は遂に彼女の方へと靡いたのでした…」。

5 前シテは、業平と有常の娘との契りの物語を語ります(〔クセ〕)。

――あれは、まだ幼かった頃。この地に隣同士で住んでいた二人は、家の前にあった井戸のそばに毎日並んでは、互いの面影を水に映しあっていました。やがて時は流れ、すっかり成長した二人。業平様は手紙を贈ります。『貴女に逢わずに過ごした日々。あの井戸を覗いていた私の背も、すっかり伸びてしまいました』 その求愛の言葉に、女も告白します。『並んで比べあっていた私の髪も伸びました。この髪を上げ、大人の女にして下さるのは、他ならぬ貴方――』 二人は、愛の言葉を交わしあうのでした…。

6 前シテは、自らの正体を明かして消え失せます。(中入)

雅びながらも純朴な、古き昔の物語。往時に思いを馳せていた僧は、身の上のように語る女に不審がる。物思わしげな様子を見せる女。「じつは私こそ、紀有常の娘。そして、後の世に“井筒の女”と呼ばれたのも、他ならぬ私のこと…」 夜半にまぎれ、再びこの世へと現れた彼女の魂。そう明かすと、彼女は井戸の陰に姿を消すのだった。

7 アイが登場し、ワキに物語りをします。

そこへ、この里の男(アイ)がやって来た。僧は彼を呼び止め、業平夫婦の昔物語を尋ねる。男の言葉に耳を傾けていた僧は、夫への愛に生きた有常の娘を偲びつつ、夢の世界へと沈んでゆく――。

8 ワキが待っていると後シテが現れ、〔序之舞〕を舞います。

やがて夜も更け、月に照らされた古寺の庭。その傍らに、一人の女の影が浮かびあがる。業平の装束を身にまとった彼女こそ、紀有常の娘の霊(後シテ)であった。「幼馴染みの姿を待ちつづけ、夫の愛を待ちつづけ、死してなお留まりつづける私の魂。形見の衣に袖を通せば、あの人がこの身に乗り移るよう…」 愛しい業平の温もりを感じつつ、来し方を思う彼女。彼女は月光の下、高まりゆく恋慕の思いに身をゆだねつつ舞いはじめる。

9 後シテは、井戸の作リ物に自らの面影を映します。

井戸の水面に宿る月影。それは、過ぎていった歳月の重みを表わしていた。彼女の脳裏にかけめぐるのは、二人で交わした愛の言葉の数々。慕ってやまぬ夫と渾然一体になった彼女の心は、ついに最高潮の時を迎える。感極まった彼女は、いま再び、思い出の詰まった井戸に面影を映す。――

10 後シテは消えてゆきます。(終)

――水鏡に映るすがた。彼女の眼に映ったのは、遥かの星霜を経てなお変わることなき、愛しい人の面影であった。わが姿とはいいながら、懐かしげに水面を見つめる彼女。そうする内、彼女の姿は次第におぼろになってゆく。東雲を告げる鐘が響き、四方の空が白みはじめる頃…、僧の夢は覚めたのだった。

(文:中野顕正)

過去に掲載された曲目解説「井筒」(文・江口文恵)

(最終更新:2018年11月)
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