
柏崎
作者 |
原作:榎並左衛門五郎 改作:世阿弥 |
場所 |
前場:越後国 柏崎 (現在の新潟県柏崎市)
後場:信濃国 善光寺 (現在の長野県長野市) |
季節 |
初冬 |
分類 |
四番目物 狂女物 |
登場人物
前シテ |
柏崎殿の奥方 |
面:深井など 唐織着流女出立(女性の扮装) |
後シテ |
同 |
面:深井など 水衣女出立(旅姿の女性の扮装) 「7」の場面で、〔物著〕で立烏帽子長絹女出立(舞を舞う女性の扮装) |
子方 |
善光寺の少年僧 じつは柏崎殿の遺児・花若 |
着流僧出立(僧侶の扮装) |
ワキ |
柏崎殿の家臣 小太郎 |
掛素袍大口出立(武士の扮装) |
ワキツレ |
善光寺の住持 |
着流僧出立 |
概要
訴訟のため鎌倉へ向かった夫とわが子の帰りを、ひとり故郷の越後で待っていた柏崎殿の奥方(前シテ)。しかし、帰ってきた家臣・小太郎(ワキ)から告げられたのは、夫の死と子息花若の遁世の報せであった。
悲嘆のあまり物狂いとなった奥方(後シテ)は、放浪の旅のすえ、善光寺にたどり着いた。夫の冥福を祈るべく本堂内陣へ上がろうとする彼女を、寺の住持(ワキツレ)は見咎める。しかし奥方は、罪深い者を救うことこそ仏の誓いであると反論し、本尊阿弥陀仏の前に進み出ると、形見の装束を身につけ、亡き夫を追慕しつつ法楽の舞を舞いはじめる。救われ難き身を嘆き、夫のいる西方浄土を思慕して謡い舞う彼女。そのとき、一人の少年僧(子方)が声をかける。実は彼こそ、出家したわが子であった。奥方は驚きつつも、この偶然の再会を喜ぶのだった。
ストーリーと舞台の流れ
1 ワキが登場します。
凍てつくような寒さの中、哀しみの記憶を胸に、冬の山路を旅する一人の男がいた。彼の名は小太郎(ワキ)。彼の主君・柏崎殿は、訴訟のため滞在していた鎌倉で体調を崩し、先日息を引き取ったばかり。その子・花若は世を儚んで遁世し、行方知れずとなってしまっていた。形見の品をたずさえ、故郷の越後へと向かう身には、冷たい涙雨が降りそそぐ。悲しさと、面目なさ。様々な思いが、彼の心中を駆け巡るのだった。
2 ワキは前シテに悲報を伝え、前シテは嘆きます。
故郷に着いた小太郎。その声に、柏崎殿の奥方(前シテ)は喜ぶ。夫子と離れ、ひとり田舎で孤独な日々を過ごしていた奥方。彼女はさっそく小太郎を招き寄せるが、告げられたのは悲しい報せであった。奥方は嘆く。「待ちに待った、鎌倉からの報せ。それが、こんな形になってしまうとは。『すぐに帰るよ』と言って出かけていったあの人は、過去の人となってしまったのね…」 夫の最期の様子を聞かされる奥方。あの人は最期まで、私を愛し続けていた――。そう知った奥方は、夫を思って咽び泣くのであった。
3 前シテは花若の手紙を読み、悲嘆に暮れつつ退場します。(中入)
奥方は、わが子・花若の手紙を読みはじめる。『父上亡き後の悲しさに、出家を決心した私。もしここで母上にお会いしたら、この発心の妨げになってしまうかもしれない…。そんな思いから、このまま出て参ります。父上の形見を見て、どうか心を慰めて下さい――』。
「お前ほどの父の形見が、他にあろうか…」 嘆きのあまり取り乱し、わが子を恨んで涙する奥方。彼女は慟哭し、ただただ嘆きに沈むのだった。
4 ワキツレ・子方が登場します。
所は変わって、ここは信濃国善光寺。生身の阿弥陀仏を本尊とするこの寺は、功徳あらたかな霊場として、多くの人々の信仰を集めていた。
さきごろ、この寺には不思議な少年が訪れていた。どこからともなく現れ、出家を希望していた少年(子方)。そんな彼の熱意に打たれた寺の住持(ワキツレ)は望み通り少年を出家させ、弟子として育てていたのだった。今日もまた、二人は本堂での勤行に向かう。
5 後シテが登場して狂乱の姿を見せ(〔カケリ〕)、旅の道中を謡い舞います。
その頃――。嘆きのあまり心乱れた柏崎殿の奥方(後シテ)は物狂いとなり、わが子を求めて放浪の旅に出ていた。「徒らにこの世にながらえて、つらく苦しいばかりの日々。いっそこの身も、露のように儚く消えてしまえたなら…」 そんな思いすら叶わぬ世の中。彼女は夫子を恨みつつ、人目も憚らぬ姿のまま、山路を南へと旅していたのであった。
やがてたどり着いた地こそ、かの善光寺。夫の冥福を祈るべく、彼女はこの寺を訪れる。
6 後シテはワキツレの制止を振り切って本堂内陣に入り、仏を讃えて舞い戯れます。
本堂へ入ってゆく奥方を、住持は見咎める。本堂内陣は聖なる空間、罪深き女人の身として立ち入ることは罷りならぬ――。そう告げる住持に、彼女は反論する。「罪深い身なればこそ、阿弥陀様にすがるのです。南無阿弥陀仏の声こそが、極楽へと導く道しるべ…」 迷いの渦巻くこの世から、光に満ちた浄土の世界へ。ひとすじの救いの道にいざなわれ、奥方は仏のもとへ向かってゆく。宵闇の内陣にきらめく常灯明、それは、人々を救おうと誓う如来の願いの光。そんな清らかな光に包まれつつ、彼女は祈りを捧げるのだった。
7 後シテは形見の装束を身につけ、夫を追慕します。
宝前に形見の装束を捧げ、亡き夫の冥福を静かに祈る奥方。やがて彼女は、法楽の舞を舞って仏に捧げようと、この形見の装束を身にまとう。「ああ、慕わしいこと。この衣の主は、文武両道にすぐれた諸芸の達者。宴席などには座を盛り上げようと、舞の装束を麗しく着て、こう、扇をとって謡い舞ったのです…」 夫の衣に袖を通し、恍惚の表情を浮かべる奥方。彼女は在りし日の思い出を語ると、夫の面影を慕って舞いはじめるのだった。
8 後シテは無常のこの世を嘆き、浄土を思慕して謡い舞います(〔クセ〕)。
——有為転変の世の中で、添い続けることも叶わなかった家族への思い。恩愛の心はこの身にまとわり、煩悩の雲を晴らすすべもない。しかし、この世の姿を描き出すのも心次第。そう気づくとき、浄土は身近な所にあったと知るのだ。願わくは、かの清らかな世界へ。弥陀の誓いが偽りなくば、愛するあの人は今、白雲たなびくあの西の山の、そのまた向こうの空のかなた。どうか、かの清浄無垢の世界で、あの人と再び一緒になれたなら…。
9 子方の正体が判明し、シテは子方と再会を遂げます。(終)
家族との別離を嘆き、仏にすがる奥方。そんな彼女に、少年僧が声をかける。「今は何を隠しましょう。私こそ、あなたの子・花若ですよ…」 突然のことに驚く彼女。出家者となった子に、狂乱の身となった母。ともに姿の変わってしまった二人ながら、その面差しは、在りし日の面影を留めていた。疑いもなき親子の対面。母はわが子の手を取ると、この偶然の再会を喜ぶのであった——。
(文:中野顕正)
近日の上演予定
近年の上演記録(写真)
(最終更新:2018年6月)
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