金札(きんさつ)
◆登場人物
(前シテ) | 神職の老人 じつは天津太玉神(あまつふとだまのかみ)の化身 |
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後シテ | 天津太玉神 |
ワキ | 桓武天皇の勅使 |
ワキツレ | 勅使の従者 【2人】 |
(アイ) | 土地の男 |
※前シテ・アイは、現在の観世流の演出では登場しません。 |
◆場所
京都南郊 伏見の里 〈現在の京都市伏見区 金札宮〉
概要
平安京造営のさなか。伏見の里に神の宮居を建てるべく、桓武天皇は勅使(ワキ・ワキツレ)を現地へ派遣する。〔そこへ現れた一人の老人(前シテ)。伊勢国の神職と名乗る彼は、造営の君恩を思って涙し、社殿建立の恵みを喜んで歌を謡う。そのとき天から降ってきた、金色に輝く一枚の札。そこに書かれたのは、国土守護のため伏見に留まることを誓う、神の託宣であった。老人は、“伏見”とは日本国の総名だと明かすと、姿を消してしまう。実は彼こそ、金札の主にして天照大神の眷属、天津太玉神の化身であった。〕
やがて完成した、神の宮居。すると社殿の奥から神の声が響きわたり、太玉神(後シテ)が出現した。太玉神は降魔の弓矢を以て荒ぶる神々を射祓うと、件の金札をこの宮に納め置き、国土の平安を祝福するのだった。
※現在の観世流の演出では、亀甲括弧〔〕を付した場面は上演されません。
ストーリーと舞台の流れ
1 ワキ・ワキツレが登場します。
平城京の旧弊を改め、山城国愛宕郡に新都・平安京を造営した桓武天皇。その一大事業によって国土は豊かに富み栄え、人々は平和の日々を謳歌していた。神々の造り伝えたこの国に、今なお恵みをもたらし続ける君の徳。それはまさに、国土安寧の道なのであった。
その新都造営の一環として、平安京の南、伏見の里に神の宮居の建立を思い立った天皇。天皇は、その現場を監督させるべく、勅使(ワキ・ワキツレ)を現地へ派遣する。
(2) 前シテが登場し、ワキと言葉を交わします。
※現在の観世流の演出では、この場面は上演されません。
現地へ下向した勅使たち。その前に、一人の老神職(前シテ)が現れた。輝くばかりの新しい社殿を前に、随喜の涙を流す老人。名を尋ねる勅使へ、彼は自らを伊勢国阿古根浦の禰宜と名乗り、造営の徳を慕ってやって来たのだと言う。これまで心身安楽に日々を送ってこられたのも、万民を覆い潤す帝の聖徳あればこそ。この伏見の宮居への参詣というのも、その君恩に報ずる心の表れなのであった。
(3) 前シテは、木づくしの謡を謡います。
※現在の観世流の演出では、この場面は上演されません。
造営の恵みを喜び、歌を謡う老人。『花咲く春の木を伐れば、降りかかる落花は雪の色。移り変わりゆく歳月の中で、釣瓶の縄は井桁を摩り切り、深山の水は巌を穿ち切る。車となるのは椎の木、船となるのは柳の木。槻の木こそは梢を洩る“月”、桐の木こそは秋立つ“霧”。寿命長遠の楪(ゆずりは)に、千秋万歳の松の緑。名にも似ず春には咲かぬ椿の枝、神を宿すのは榊の枝――』。
(4) 前シテは、自らの正体を明かして消え失せます。(中入)
※現在の観世流の演出では、この場面は上演されません。
その時。虚空のかなたから、金色に輝く一枚の札が降ってきた。『真如の理を体現する、流れ久しき君が代。私はその守護神として、伏見の地に留まるのだ――』 札に記されたその言葉を読み上げる勅使へ、老人は告げる。「その昔、天磐座に伏して国土を見出した伊弉諾・伊弉冉の神。実は“伏見”とは、この日本国土の総名なのです」 そう明かし、光の中へと姿を消した老人。『私こそ天津太玉神。なおも私を拝したくば、宮居の造営を進めるのだ…』 あとには、そう告げる神の声だけが、天空にこだましていたのだった。
(5) アイが登場します。
※現在の観世流の演出では、この場面は上演されません。
神託を受け、ますます活気を帯びた造営の場。この里に住む男(アイ)たちも社殿の建立に力を合わせ、皆で神恩に報いようとする。
6 後シテが出現します。
やがて完成した、新たなる神の宮居。そのとき社殿の奥から、厳かな声が響きわたる。「君の恵みや、民の栄え。悠久の時を刻む、この豊かな御代を守ることこそ、私の使命なのだ――」 その声とともに開かれた、神殿の扉。その中からまばゆい光に包まれて、太玉神(後シテ)が出現した。
7 後シテは神威のほどを見せ(〔舞働〕)、御代を祝福します。(終)
国土を守護する、神の姿。悪魔降伏の真如の槻弓に、邪神を祓う清き矢をつがえた神は、矢を射放って荒ぶる悪神たちを祓い退ける。四海は治まり夷狄の恐れなく、平和な日々を送る日本の地。太玉神は弓も剣も袋に納め、神託の金札は社殿の奥へと安置された。こうして、神の加護ある日本の地は、幾久しく栄え続けるのだった――。