胡蝶(こちょう)
◆登場人物
前シテ | 女 じつは胡蝶の精 |
---|---|
後シテ | 胡蝶の精 |
ワキ | 旅の僧 |
ワキツレ | 同行の僧 【2‐3人】 |
アイ |
土地の男 |
◆場所
京都 一条大宮 〈現在の京都市上京区下石橋付近〉
概要
季節は初春。僧の一行(ワキ・ワキツレ)が京都 一条大宮を訪れ、古さびた由緒ありげな邸宅で梅の花を眺めていると、一人の女(前シテ)が現れた。内裏にも程近いこの地の梅は、いにしえの貴族たちも賞玩していた名木なのだと教える女。実は彼女の正体は、蝶の精霊。花々に心を寄せる蝶も、寒中に咲く梅花にだけは縁がなく、その悲しみからの救済を願って現れたのだった。彼女は法華経の功徳にあずかることを願うと、いにしえの古典に詠み込まれた胡蝶の身の栄誉を思いつつ、後刻の再会を約して姿を消す。
経を手向け、梅花の蔭にまどろむ僧たち。その夢中に、蝶の精(後シテ)が真の姿で現れた。心なき草木までもが救われるという法華経の力によって、嘆きを晴らすことの叶った彼女。彼女はその喜びに花々の間を飛びめぐり、優雅に遊び戯れるのだった。
ストーリーと舞台の流れ
1 ワキ・ワキツレが登場します。
初春。深雪の残る山路を春風が吹きぬけ、立ちこめる霞が遠くの山々を覆う頃。春の訪れを迎えた京の町はのどかに、“花の都”の名に恥じぬ様子である。
その名高き都の春を見ようとやって来た、吉野の奥に住む僧たち(ワキ・ワキツレ)。一条大宮に到った一行が目にしたのは、由緒ありげな古びた邸宅であった。その寝殿のほとりには、今を盛りと咲く一木の梅。一行はこの花を眺めようと、邸宅の中へ入ってゆく。
2 前シテが声を掛けつつ登場し、ワキと言葉を交わします。
「もうし、お坊さま…」 そのとき寝殿の傍らから、一人の女(前シテ)が姿を現した。はじめて京を訪れた一行のため、この邸宅の由緒を語る女。「内裏にも程近いこの地は、春ごとに貴顕の人々が訪れ、花を眺めつつ遊宴を催していた場所。心を留めて、この花をご覧なさいませ」 匂い来る梅が香につけても偲ばれるのは、華やかなりし昔の春。その栄華の跡も朽ちゆく今、名も無きこの身とは言いながら、在りし日々の恋しいこと――。
3 前シテは自らの正体を明かし、昔の身の栄誉を語りつつ姿を消します。(中入)
「まことは私は蝶の精。花々に思いを寄せる私も、昔より寒中に咲く梅花にだけは縁がなく、その嘆きから救われたさに、こうして現れたのです。“胡蝶の夢”の無常の世ながらも、いにしえ光源氏の賞玩にあずかった、胡蝶の童舞。その折のことが偲ばれて…」。
やがて時刻は移り、邸内に射してきた一すじの月光。その光のもと、女は夢中の再会を約束すると、空のかなたへ消えてゆくのだった。
4 アイが登場し、ワキに物語りをします。
そこへやって来た、この土地の男(アイ)。男は僧たちに所望され、この土地の来歴などを物語る。一行はその言葉に耳を傾けつつ、先刻の女に思いを馳せるのだった。
5 ワキたちが待っていると後シテが現れ、ワキと言葉を交わします。
春の宵。僧たちは経を手向けつつ、月下に映える梅花の蔭で、夢の世界へと沈んでゆく。
その夢枕に現れた、一羽の蝶(後シテ)。「生きとし生けるもの、果ては心を持たぬ草木までもが成仏するという、法華経の功徳の有難いこと。永きにわたって抱き続けていた梅の花への執着も、まさに今、お坊様のおかげで晴らすことができました…」 蝶の精は梅花の間を飛びめぐり、芳しい香りに包まれて、たおやかに舞の袖を翻しはじめる。
6 後シテは舞い戯れ(〔中之舞〕)、夜明けとともに消えてゆきます。(終)
四季折々の花に心を寄せる、蝶の生きざま。昔の内裏にも程近い、この古さびた屋敷の内で、彼女は花々の色香に惹かれ、優雅に遊び戯れる。季節とともに移ろいゆく自然のすがたを一身に受けとめ、楽しみの限りを尽くした蝶。森羅万象、ありのままこそが真如の姿だと説く経の功徳に、彼女は菩薩のごとき舞い姿を見せつつ、仏の世界へと赴いてゆく。
胡蝶の精は、羽をひらひらと翻しつつ、春霞のかなたへと消えていったのだった。