皇帝(こうてい)
◆登場人物
前シテ | 老人(鍾馗(しょうき)の霊) |
後シテ | 鍾馗の神霊 |
ツレ | 病鬼 |
子方 | 楊貴妃 |
ワキ | 玄宗皇帝 |
ワキツレ | 廷臣 【2人】 |
アイ | 官人 |
※楊貴妃は、ツレがつとめる演出もあります。 |
◆場所
唐土 長安 皇帝の宮中 〈現在の中国 陝西省西安市長安区〉
概要
中国 唐の玄宗皇帝(ワキ)は、長患いが続く楊貴妃(子方)の看病を続けていた。そんなある日、忽然と現れた一人の老人(前シテ)。彼は自らを、かつて試験に落第して自死した鍾馗の霊だと明かし、死後に手厚く弔われた報恩として貴妃の病を治そうと言う。老人は、霊鏡“明皇鏡”を枕元に据えるよう告げると、姿を消してしまうのだった。
そうする内、貴妃の病は次第に重くなってゆく。嘆きつつ看病を続けていた玄宗は、先刻の老人の言葉を思い出した。玄宗が明皇鏡を据えると、そこに映ったのは病鬼(ツレ)の姿。しかし病鬼は、通力によって玄宗を翻弄すると、再び姿を隠してしまう。そのとき現れた、鍾馗の神霊(後シテ)。鍾馗は霊力によって病鬼の姿を見顕わすと、遂にこれを退治して貴妃の病を治し、御代の長久を言祝ぐのだった。
ストーリーと舞台の流れ
1 アイが登場します。
中国 唐の時代。強大な帝国を築き上げた玄宗皇帝は、后の一人・楊貴妃を深く愛し、後宮には栄華の日々が訪れていた。紅色に染まった花びらの如き、優艶にして可憐な貴妃の顔色。それは、玄宗の華麗な治世をも、象徴しているかのようであった。
ところが最近、その楊貴妃は病の床に臥せっていた。原因不明の長患いに、宮廷内には日増しに不安が積もってゆく。皇帝の官人(アイ)は、今日もその対応に追われていた。
2 ワキ・ワキツレが登場します。
やがて出御の時刻。玄宗(ワキ)は臣下たち(ワキツレ)を連れ、今日も貴妃(子方)の看病にやって来た。在りし日は芙蓉に比すべき紅色を誇っていた貴妃も、今は力なく衰えゆくばかり。折しも朧月夜の春、その淡く儚い月影のように、露の命もいつまでか…。次第に翳りを帯びる彼女の面差し。それはまるで、霞に閉ざされた桜花のすがた。そんな病魔に冒されゆく貴妃の姿に、玄宗は心を痛めるのだった。
3 前シテが登場してワキと言葉を交わし、姿を消します。(中入)
ひっそりと静まりかえった宮中。気がつけば、欄干の下には一人の老人(前シテ)が佇んでいた。玄宗に声をかける老人。「私は、官吏を志して試験に臨むも叶わず、宮殿の御階に頭を打ちつけて果てた、鍾馗という者の霊。勿体なくも死後に贈官を受け、懇ろな手向けまで下さった報恩に、貴妃さまの御病悩をお治し致しましょう――」 彼は、霊鏡“明皇鏡”を貴妃の枕元に立てるよう言い遺すと、御階の傍らに姿を消すのだった。
4 ワキは子方を看病しつつ、嘆きを述べます(〔クセ〕)。
次第に重さを増してゆく病。衰弱した彼女の姿は、痛わしさに目も当てられぬほど。貴妃はそんな自らを恥じ、涙を浮かべるばかりであった。枕のあとは薄赤く頬に残り、春雨に濡れた梨花、眠りから覚めぬ海棠のごとき、うちしおれた様子の彼女へ、玄宗は万事を擲って愛の限りを注ぐ。その想いを一心に受ける貴妃。しかし彼女は今、その儚い息を引き取ろうとしている…。「どうかこの契りよ、天地とともに、末永く続いておくれ――」 玄宗は、弱りゆく貴妃の面差しを見つめつつ、愛の長久を願うのだった。
5 鏡の前でワキが待っていると、ツレが出現します。
そのとき玄宗は、先刻の老人の言葉を思い出した。藁にもすがる思いで鏡を枕元へ据え置く玄宗。激しい風が吹きはじめる、暮れゆく空の下。彼は、固唾を呑んで見守り続ける。
するとその鏡の中に、一匹の鬼神(ツレ)の影が映った。貴妃の枕元へ狙い寄り、高笑いをする鬼神。さては、これこそ病魔の正体だったのか。剣を抜いて走り寄る玄宗。しかし病鬼は天地を飛び廻って彼を翻弄すると、柱の陰に姿を隠してしまうのだった。
6 後シテが出現し、ツレを退治します。(終)
そのとき。天を覆っていた雲は晴れ、大地は鳴動しはじめる。輝きだした宮殿内に現れた人影――それこそ、かの鍾馗の神霊(後シテ)であった。
彼が鏡に向かえば、そこには病鬼の姿がはっきりと映っていた。鍾馗のひと睨みに通力も失せ、慌てて逃げ出す病鬼。鍾馗はそんな鬼を引きずり出すと、遂にこれを斬り捨てる。
かくして、病の癒えた楊貴妃。鍾馗は御代の長久を言祝ぐと、宮廷の守護神になろうと誓いつつ、そのまま消えてゆくのだった。