銕仙会

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曲目解説

車僧くるまぞう
中世社会の背後に暗躍する“魔”の世界。冬の嵯峨野で繰り広げられる、神通力の頂上決戦。
作者 不詳
場所 前場:京都の西の郊外 嵯峨野 (現在の京都市右京区)
後場:京都の西の郊外 愛宕山あたごやま (現在の京都市右京区)
季節 晩冬
分類 五番目物 天狗物
登場人物
前シテ 愛宕山の天狗 太郎坊 直面 山伏出立(山伏姿の者の扮装)
後シテ  同 面:大癋見 天狗出立(天狗の扮装)
ワキ 車僧 沙門帽子僧出立(高徳の僧の扮装)
間狂言 太郎坊の手下 溝越天狗 小天狗出立(下っ端の天狗の扮装)

概要

牛も繋がぬ車を法力によって乗りこなす高徳の僧・車僧(ワキ)が嵯峨野に至ると、大天狗の太郎坊(前シテ)が現れ、車僧に禅問答を挑む。車僧が舌鋒鮮やかに受け流すので、太郎坊は「我が住み家で待っておるぞ」と言い残して去ってゆく。車僧が太郎坊の棲む愛宕山に至ると、太郎坊が真の姿で現れ(後シテ)、法力比べを挑む。しかし車僧の法力の前に太郎坊は力及ばず、遂に観念して退散するのであった。

ストーリーと舞台の流れ

1 ワキが登場します。

冬の嵯峨野。空からは雪が舞い降り、大堰川おおいがわの水はごうごうと音を立てて流れゆく。

その嵯峨野に、一人の僧(ワキ)が現れた。「車僧」とあだ名されるこの僧は、法力によって牛も繋がぬ車を自在に動かし、洛中洛外を行きめぐる、修行をきわめた和尚である。

2 前シテが現れ、ワキとの間で禅問答を繰り広げます。

そこへ、山伏姿の一人の男(前シテ)が現れた。男は車僧に問答を吹っかける。「そなた、まだ輪廻を離れておらぬと見える…」 車僧を魔道に誘惑しようという魂胆だ。しかし車僧も流石のやり手、「もとより、輪廻をめぐる“我”など存在せぬのじゃ」と切り返す。

男は様々に難題を吹っかけるが、車僧は鮮やかに受け流してゆく。

3 前シテは、自分の正体を明かして去ってゆきます(中入)。

そのとき、空に黒雲が立ちこめ、嵐が激しく吹きすさぶ。

「おお、さすがの車僧よ。我こそは、愛宕あたごの峰に棲む天狗・太郎坊。わしの庵室で、待っておるぞ」 そう言うと、彼は黒雲に乗り、空高く飛び去って行ったのだった。

4 間狂言が登場し、ワキの法力を乱そうと、ちょっかいを出します。

そこへ、太郎坊の手下、溝越天狗みぞごえてんぐ(間狂言)が現れた。車僧の法力を乱すため、くすぐり、囃し立てて笑わせようとするが、車僧に一蹴され、すごすごと退散してゆく。

5 後シテが登場し、ワキに挑みかかります。

愛宕山に至った車僧の前に、日本一の大天狗・太郎坊(後シテ)が正体をあらわした。「よく来たな、車僧よ。この国に自分ほど徳の高い僧はいない…と、そう慢心を起こしているのではあるまいか? その調子だ、おぬしを魔道へと導いて差し上げようぞ」 太郎坊は、車僧を魔道へ引き入れようと、彼に法力比べを挑む。

6 後シテは、ワキと法力比べをします。

悠然と構える車僧。太郎坊は、なおも誘惑を続ける。「面白い景色じゃ。さあ、嵯峨野の方へ雪見に行こうじゃないか」 太郎坊はそう言うと、車僧の乗る車を打って動かそうとする。しかし車僧は動じない。「愚かな天狗め、車を打って動くものか。動かしたいなら牛を打つのじゃ、ほれ」と言いつつ虚空を打つと、車は自然に動き出す。

7 法力を見せつけられた後シテは退散してゆき、この能が終わります。

虚空を翔り飛んでゆく、車僧の車。太郎坊も天を飛びまわって眩惑するが、車僧は動じる気配を見せない。車僧の見せる法力の前に、太郎坊は遂に観念し、魔性を和らげて退散してゆくのであった。

みどころ

能楽の生まれた中世の日本には、“魔”が棲んでいました。

中世の日本は、仏法が衰えゆく時代「末法」(仏の教えが形ばかり残っているだけの、救いの無い時代)を迎えていました。仏法は形骸化して寺院は堕落をきわめ、善行を積まぬ破戒坊主たちが仏教界を支配する…、そのように考えられていました。こうした破戒坊主たちは、解脱したり良い世界に転生したりすることができず、かといって前世に形ばかりは経を読んでいたので、地獄にも堕ちられない…、そういった“生臭坊主”たちが来世に生まれる世界が「魔道」あるいは「天狗道」であるとされ、恐れられていました。たしかに仏教教理に熟達していても、そうした自分の学識を誇ることによって、かえって成仏できず魔道に堕ちてしまう…、そんな“魔”の存在が、日本の国土には蔓延していると考えられていたのでした。

もちろん実際には、必ずしも中世の仏教が腐敗しきっていたとは言えません。時代に適合した新たな思想を展開する人々が多く現れ、従来の仏教教団の内部でも改革の動きがありました。しかし一方で、そうした新しい思想が次々と生まれ、立ち返るべき絶対的規範が揺らいでしまったことで、仏教にすがる人々のあいだに不安が生まれてしまったことも、また事実でした。「末法」の世に生きる人々は、救いのない世界という現実を、直視せざるを得なかったのです。

本作のシテ・太郎坊は、そのような中世の社会の背後に棲む“魔”の代表格のひとりです。本作では、太郎坊は、神通力を使うほどの高徳の僧である車僧(ワキ)を誘惑し、魔道に引き込もうと画策します。学識高い車僧の心の内なるすきにつけ込んで慢心を生じさせようとしたり、逆に禅問答を吹っかけて車僧を論破してしまおうとしたり、あの手この手で、太郎坊は車僧を魔の仲間にしてしまおうとするのです。

ところが、車僧もなかなかのやり手、簡単には太郎坊に負けません。禅問答を吹っかけられれば悠然と切り返し、慢心を生じさせようと誘惑されても涼しい顔をして受け流してしまいます。さらに車僧は、神通力によって車を動かし、逆に太郎坊を惑乱します。太郎坊も応戦しますが、最後には、敵わず退散してゆくのでした。

幻覚を見せて眩惑する“魔”の太郎坊と、法力によってこれを受け流す車僧。人智をこえた能力をもつ二人が繰り広げる、神通力の頂上決戦をお楽しみ下さい。

(文:中野顕正)

近年の上演記録(写真)

(最終更新:2017年1月)

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