車僧(くるまぞう)
◆登場人物
前シテ | 天狗の首領 太郎坊 |
---|---|
後シテ | 同 |
ワキ | “車僧” 深山(しんざん)禅師 |
アイ | 太郎坊の眷属 |
◆場所
京都西郊 嵯峨野 〈現在の京都市右京区嵯峨〉
概要
牛も繋がぬ車を法力によって自在に乗りこなし、“車僧”との異名をもつ禅僧・深山禅師(ワキ)。ある冬の日、禅師が車に乗って嵯峨野の景色を眺めていると、山伏姿の男(前シテ)が禅問答を挑んできた。禅師の慢心につけ込み、魔道へ誘惑しようと企む男。しかし禅師は舌鋒鮮やかに受け流し、動じる気配を見せない。その姿に、男は自分こそ大天狗の太郎坊だと正体を明かすと、棲処の愛宕山へと飛び去ってゆくのだった。
愛宕山に到った禅師の前に、真の姿を現した太郎坊(後シテ)。太郎坊は禅師に法力比べを挑むが、禅師は法力を自在に操り、車のまま天空を飛びまわって太郎坊を翻弄する。太郎坊も嵯峨野の山河を翔りめぐって対抗するが、ついには観念し、禅師のもとから退散してゆくのだった。
ストーリーと舞台の流れ
1 ワキが登場します。
冬の嵯峨野。四季折々の自然が美しいこの里も、今は一面の雪景色。舞い散る雪の小倉山や嵐山の間を縫って、大堰川の水はごうごうと音を立てつつ流れゆく。
そんな嵯峨野の景色を眺めにやって来た、一人の僧(ワキ)。彼こそ、天下に名高き深山禅師。修行をきわめて抜群の法力を身につけ、牛も繋がぬ車を自在に操るその姿から“車僧”との異名をもつ、臨済禅の高僧である。
2 前シテが現れ、ワキに禅問答を挑みます。
そのとき、禅師を呼び止める声がした。「車僧よ。世間を廻るその行いは、輪廻に迷う姿と見ゆる――」 声の主は、山伏姿の一人の男(前シテ)。法力を誇る禅師へ禅問答を吹っかけ、あわよくば魔道に引き込もうという魂胆だ。しかし禅師もさすがのやり手。「もとより、輪廻を廻る“我”など存在せぬ。留まりもせず動きもしない、廻るも廻らぬこの車。これこそ、火宅を離れる解脱の車に他ならぬ」 男が出す難題の数々を物ともせず、禅師は鮮やかに受け流してゆく。
3 前シテは、自分の正体を明かして去ってゆきます。(中入)
繰り広げられるのは、聞く者の思考を超越する禅問答の数々。冷たい川面の色、吹きすさぶ風、空には黒雲までもが垂れこめる中、男はついに正体を明かす。「我こそは、愛宕の峰に棲む天狗の首領・太郎坊。この私の庵室で、そなたの来訪を待っておるぞ――」 そう告げると、彼は黒雲に飛び翔り、わが棲処へと去ってゆくのだった。
4 アイが登場し、ワキへの挑発を試みます。
そこへ現れた、太郎坊の手下の小天狗(アイ)。彼は禅師に悪戯を仕掛け、くすぐり、囃し立てて禅師の法力を乱そうとする。しかし禅師はそんな彼を一喝し、小天狗はすごすごと退散してゆくのだった。
5 後シテが出現し、ワキに法力比べを挑みます。
愛宕山の雪道を進みゆく禅師。するとそこへ、太郎坊(後シテ)が真の姿を現した。日本一の大天狗との噂に違わぬ、威厳に満ちたその姿。「車僧よ、よく来たな。天下に自分ほど徳の高い者はないと、定めて慢心を起こしているのだろう。さあ、魔道にも心を寄せるのだ。善悪二つは車の両輪、邪正一如というではないか…」 禅師に迫る太郎坊。彼は、禅師を魔境に堕とそうと、法力比べを挑みかかる。
6 後シテは、ワキと法力を競いあいます。
頻りの誘惑にも動じない禅師。もとより正にも邪にも留まらぬ彼は、悠然と車外の景色を眺めている。そんな禅師に太郎坊は、ならば嵯峨野の冬景色の中で法力を競おうと誘いかけ、車を打って動かそうとする。禅師は言う。「愚かな天狗め、車を打って動くものか。動かすのなら牛を打て。この牛が見えぬか、ほれ、こうするのだ」 そう言いつつ虚空を打てば、車は自ずと動き出す。
7 後シテは退散してゆきます。(終)
虚空を翔り飛んでゆく車。雪山すらも仏法の便り、嶮しき山路も平野の如く、行くも止まるも自由自在。嵯峨野の山河を飛びめぐって眩惑しようとする太郎坊にも、禅師は動じる気配を見せない。そんな禅師の力の前に、遂に観念した太郎坊。彼は魔性を和らげつつ、禅師のもとから退散してゆくのだった。