松風(まつかぜ)
◆登場人物
シテ | 海女 じつは松風の幽霊 |
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ツレ | 海女 じつは村雨の幽霊 |
ワキ | 旅の僧 |
アイ | 土地の男 |
◆場所
摂津国 須磨浦 〈現在の兵庫県神戸市須磨区〉
概要
旅の僧(ワキ)が摂津国 須磨浦を訪れると、秋の夜の風情のなか、海女の姉妹(シテ・ツレ)が現れた。月光の下、汐を汲みつつやって来た二人。僧は二人と言葉を交わすが、昔この地で日々を送ったという在原行平の話題になると、二人は涙を浮かべる。実は二人こそ、行平がこの浦で寵愛していた、松風・村雨という海女の姉妹の幽霊だったのだ。三年間の愛の日々は早くも過ぎ、都へ帰りそのまま亡くなった行平。姉妹は恋慕の執心に焦がれつつ、形見の衣を手に、霊魂となった今なお悲嘆の日々を送っていたのだった。
そう語るうち、過去の記憶が蘇ってきた姉妹。松風は、行平の形見の衣に袖を通す。『自分を待ち続けるならば、決して忘れはしまい』との行平の言葉を胸に、浜の松に行平の姿を幻視した彼女。彼女は、高まりゆく心のままに舞を舞い、行平を恋い慕うのだった。
ストーリーと舞台の流れ
1 ワキが登場します。
摂津国 須磨浦。耳に届くものは波の音ばかりの、それは寂しい鄙の浦里であった。しかし同時に、この里は、古来より文芸の世界に詠み継がれてきた、人々のあこがれの地。様々な事情から洛中を去り、この地で流謫の日々を過ごした貴公子たちの物語とともに、この浦の名は、人々の心の内に刻まれていたのである。
今日もまた、諸国を旅する一人の僧(ワキ)が、この浦へと足を運んでいた。
2 ワキは、松の由来をアイに尋ねます。
浜辺には一本の松。そこには、由緒ありげな短冊が懸けられていた。僧は浦の男(アイ)に声をかけ、この松の由緒を尋ねる。聞けば、昔この浦に居たという、姉妹の海女の旧蹟であった。松風・村雨と名づけられた、この二人の海女。松に懸けられた短冊は、そんな姉妹の亡き跡を弔う、人々の廻向のしるしだったのだ。
やがて夕暮れどき。僧は今宵の宿を借りようと、傍らの小屋に立ち寄ることとした。
3 シテ・ツレが登場します。
秋の夜。空には澄んだ月が、海面に寂しげな影を落としている。その幽かな光の中に現れた、海女の姉妹(シテ・ツレ)。汐を汲み、車に載せて曳く彼女たち。巡りゆく車の輪こそこの世のすがた。波音近い鄙の浦里で、わが身の友とするものは、家路を照らす月ばかり。こんなにも生きてゆくことの大変な世の中で、二人はみすぼらしい姿を恥じ、衰えまさるわが境遇を嘆く。天に輝く月を羨みつつ、二人は、今夜も汐を汲みに行くのだった。
4 シテ・ツレは、汐を汲みつつ小屋へ帰ってきます。
つらい汐汲みの日々とはいえ、ここは名所の須磨浦。沖には漁をする人々の声。月の下には雁が飛び、千鳥も嵐も汐風も、あらゆる景物が興趣を添える。そんななか、今日も汐を汲み始めた二人。汐を運ぶ海人の姿こそ、古歌にも詠まれた浦の風情。芦辺の鶴が立ち騒ぎ、風吹きすさぶ夜寒の時刻。それでも、月は清らかに澄んでいる。海辺の暮らしとて、決して退屈なばかりではない。満ち来る汐を汲むときは、桶にも月影が宿るのだ——。
5 ワキは、シテ・ツレと言葉を交わし、宿を借ります。
この姉妹こそ、先刻僧が宿を借りようと立ち寄った、小屋の主であった。帰ってきた二人へ向かい、宿を借りたいと願う僧。妹(ツレ)はその言葉を取り次ぐが、姉(シテ)はみすぼらしい我が家を恥じ、一度は断ろうとする。しかし相手は旅の出家。姉は僧の身を憐れみ、ついに宿を貸そうと申し出る。
6 ワキは、在原行平の故事を口にします。
粗末な小屋の内を恥じる姉妹。しかし僧は言う。思えば昔、この地で流謫の日々を過ごした在原行平は、都の知人に宛ててこう告げたという。『もしも尋ねてくれる人が居たならば、こう伝えて下さい。“須磨の汐の間での暮らしに、涙を流す日々です”と——』 この須磨浦は、昔物語にも知られた侘び住まいの地。しかも先刻、松風・村雨という姉妹の跡を供養したばかり。出家の身には、この質素な暮らしが丁度良いのだと、僧は答える。
7 シテ・ツレは、自らの正体を明かします。
その言葉に、思わず涙する二人。「実は我々こそ、その松風・村雨の幽霊なのです。行平様がこの地におられた頃、汐汲みの姿で遊興の場に召され、御心をお慰めしたのが、浦の海女であった私たち。浦の情景に因んで松風・村雨と名付けられ、行平様のご寵愛を頂いていた日々。しかし三年の後、都へ帰ってゆかれた行平様。程なく届いたのは、彼が亡くなったとの報せでした。身の丈に合わぬ恋心を抱いた、賤しい海女の罪の報い。思いは乱れ、祈る心のかいもなく、私達もそのままこの世を去ったのです…」。
8 シテは、行平への恋慕の思いを吐露します(〔クセ〕)。
——思い出される、昔の日々。行平様が都へ帰る時分、形見として、烏帽子と狩衣を遺し置かれました。しかしこれを見れば、いっそう心は乱れるばかり。これさえ無ければ、心安まる時もあろうに…。行平様がこの世を去った今、再びお会いできる可能性は無くなった。形見とて、何の役に立とうか! とはいえ捨て置くこともできず、かといって手に取れば思いは募る。恋の思いに責め苛まれ、涙に伏し沈むばかりだったのです…。
9 シテは、形見の装束を身につけ、浦の松に行平の姿を幻視します。
形見の装束に袖を通した松風。彼女は恍惚の表情を浮かべつつ、ひとり浜へと向かってゆく。「ああ、あそこに行平様が立っている。この私を、呼んで下さっている…」 しかし彼女の視線の先にあるのは、浜の松であった。姉を諫める村雨。しかしそんな妹へ、松風は言う。「あの松こそ、行平様のお姿。『今は別れようとも、貴女が「待つ」と聞いたならば、その時は必ず帰って来よう』と、行平様は言い遺して行かれたではないか——」。
10 シテは、行平を恋い慕う舞を舞います(〔中之舞〕)。
行平と過ごした日々を追憶する松風。その心に突き動かされるように、彼女は形見の衣を翻し、恋慕の思いを託して舞いはじめた。『ひとたびは別れようとも、貴女が私を待つ限り、私は貴女を忘れはしない』——その行平の言葉を胸に、ひたみちに舞う彼女。この浦に根ざす「松」の木こそ、行平を「待つ」心のかたち。松風は、行平の来訪を夢見つつ、松の木蔭に身を寄せる。
11 シテは、激しい恋慕の思いを見せ(〔破之舞〕)、消えてゆきます。(終)
松のすがたに行平の面影を重ね合わせ、木肌を抱きしめる松風。最高潮に達した、彼女の心。松風は、やり場のない思いの全てを乗せて狂い舞う。
今宵明かされた、この浦の恋の記憶。それは、木の間に風の荒れすさぶ、浦波激しい秋の夜の夢であった。妄執のさまを明かし、廻向を願う姉妹の霊。そうするうち、二人の姿は消えてゆく。——あとには、松吹く風の音だけが、そこには残っていたのだった。