銕仙会

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曲目解説

松風まつかぜ
月光に照らされ汐を汲む人影は、愛しい人を待ち続けた、女の魂であった。何百年もの時を超えて燃えつづける、彼女の恋の情念。
別名 〈松風村雨〉
作者 世阿弥
古作(喜阿弥作曲)の能〈汐汲しおくみ〉の翻案
場所 摂津国 須磨の浦 (現在の兵庫県神戸市須磨区)
季節 晩秋
分類 三番目物 本鬘物
登場人物
シテ 海女 じつは松風の霊 面:若女など 水衣女出立(労働する女性の扮装)
〔物著〕で、風折長絹女出立(男装した女性の扮装)
ツレ 海女 じつは村雨の霊 面:小面など 水衣女出立
ワキ 旅の僧 着流僧出立(一般的な僧侶の扮装)
間狂言 須磨の浦の人 長裃出立(庶民の扮装)

概要

旅の僧(ワキ)が須磨の浦を訪れると、一本の松の木が目にとまった。昔の松風・村雨という海女の姉妹に所縁のある木だと聞いた僧は、この松を弔い、日も暮れたので浜辺の小屋に泊まろうとする。そこへ、小屋の主である海女の姉妹(シテ・ツレ)が現れ、月光の下で汐を汲み、小屋に帰ってくる。姉妹ははじめ宿泊の願いを断ろうとするが、相手が僧と知ってこれを許し、自分たちこそ松風・村雨の霊であると明かす。二人は、昔在原行平ありわらのゆきひらが須磨に下向してきたときに召された海女で、行平が都へ帰り程なく亡くなってしまったことを嘆き悲しむのであった。松風は行平の形見の衣を手に取り、これを身につけて恋慕の思いをいっそう強くしてゆき、ついに想いゆえに狂乱し、行平を恋い慕って舞を舞う。

ストーリーと舞台の流れ

0 松の立木をあらわす作リ物が運び出されます。

1 ワキが登場し、自己紹介をします。

摂津国 須磨の浦。畿内のうちとは言いながら、都から隔たったこの地は、政界を追われた人々の蟄居する地として知られている。人家はまばらに、打ち寄せる波の音だけが、もの寂しげに響きわたっているのであった。

この地を訪れた、一人の旅の僧(ワキ)。彼は、浦にぽつんと生えている、由緒ありげな松の木を見つける。

2 ワキは間狂言と言葉を交わし、松の由来を知ります。

僧は、土地の男(間狂言)に声をかけ、松の木の由緒を尋ねる。男の話によれば、この松は、昔この浦にいた松風・村雨という海女の姉妹にゆかりのある木なのだという。僧はこの昔の海女たちに思いをはせ、二人の霊を弔うと、日も暮れてきたので、宿を借りようと一軒の小屋に立ち寄る。

3 シテ・ツレが登場します。

秋の日は早くも暮れ、空には月が、寂しげな光を放っている。

そんな宵の薄明かりの中、浜辺に現れた二人の女(シテ・ツレ)。汐汲しおくみ車をく彼女たちは、この浦の海女であった。賤しい身をかこち、寄る辺なき身の果てを嘆く二人。淡い月光に照らされたたもとは、まるで浦波に濡れたよう…。

4 シテ・ツレは汐を汲み、その海水を満たした汐汲み車を曳きます。

沖ゆく釣り舟がおぼろに見え、空には鳥の鳴き声が聞こえる。物寂しい、須磨の浦の情景。

月影映る、海の水面みなも。海女たちが汐を汲めば、桶の水にも月の影。月はひとつ、影は二つ…。二人の海女は桶を車に載せ、水の月をいてゆく。

5 ワキはシテ・ツレと言葉を交わします。

二人が浜辺の小屋に帰ってきたので、僧は宿を貸してくれと頼む。妹とおぼしき海女(ツレ)が取り次ぐが、姉(シテ)はみすぼらしいあばら屋だからと断ろうとする。しかし、相手が僧であると知り、やはり宿を貸そうと申し出る。

6 シテ・ツレは、自らの正体を明かします。

内へと案内された僧が、世間話がてら、昔この地を訪れた在原行平ありわらのゆきひらのこと、浜の松の木のことなどを口にすると、二人の海女は悲しげな顔をする。「実は私たちこそ、昔の松風・村雨の姉妹の幽霊なのです…」

――行平さまがこの地にいらした時、汐汲みの姿をお見せし、心をお慰めするために召されたのが、この浦の海女であった私たち。浦の情景に因んで「松風・村雨」という名を頂きました。雲の上のお人である行平さまに愛された、誇らしい日々。しかし三年の後、行平さまは都へ上り、そのまま亡くなられたとか。悲しさ、恋しさ。思いは募る。これは身分に合わぬ恋をした罰なのか。私たちは狂気となり、そのまま死んでしまったのです…。

7 シテは行平の形見の装束を持ち出し、恋しさを募らせます。

松風の霊は、行平の形見を僧に見せる。「行平さまが都へ帰る時、この烏帽子と狩衣を、形見に置いてゆかれました。これを見るたびに、恋しさは募る…。いっそこれさえ無かったならば、悲しさを忘れる日も来ようものを! とはいえ捨て置くこともできず、手に取れば思いは増すばかり。湧き起こる恋の心に責められ、ただただ、嘆き伏すばかりです…」

8 シテは形見の装束を身につけ(〔物著ものぎ〕)、行平への恋心から狂乱します。

思いあまった松風は、形見の衣を身にまとう。「嬉しいわ、あの方のお姿が見える…。私を呼んで下さっている。ああ、行かなきゃ!」 恋の妄執から狂気となった松風。彼女には、浜の松が行平に見えているらしい。村雨は姉を止めようとするが、かえって松風は妹を諭す。「行平さまは、松によそえて言い遺して下さった。『ひとたび別れようと、私のことを待っていると聞いたなら、すぐにも帰ってこよう』と。あの松こそ、行平さまよ…」

9 シテは〔イロエがか中之舞ちゅうのまい〕を舞います。

松風の恋心は高まるばかり。松をじっと見つめ、行平と過ごした日々に思いを馳せる彼女。やがて、彼女の恋慕はついに頂点に達する。

昔を偲び、愛しい人を恋い慕う、松風の舞い姿。形見の袖は月光の下にひるがえる。それは、行平と松風との、愛の形…。

10 シテは〔破之舞はのまい〕を舞い、やがて夜が明けて姿は消え失せ、この能が終わります。

極限まで高まった、恋慕の心。松風はついに、松の木を抱きしめる。

いま語り明かされる、松風の恋の記憶。しかしそれも、終わりが近づいていた。やがて夜も明け、朝の日の光が、須磨の浦を照らしてゆく…。あとには、松を吹き抜ける風の音だけが、そこには残っていたのであった。

小書解説

・見留(みとめ)

この小書がつくと、上記「10」の場面で舞われる〔破之舞〕の最後に、シテは橋掛りへ行き、松を見つめる演技をします。在原行平と過ごした昔の日々を回想し、行平を恋い慕う松風の心を、いっそう強調する演出です。
また、この小書がつくと、外にも細部の演出が様々に変化することがあります。

みどころ

本作で話題となっている在原行平ありわらのゆきひらは、『伊勢物語』で有名な在原業平なりひらの兄にあたる、平安時代初期の貴族です。『古今和歌集』によれば、この行平は、とある事情から須磨に蟄居することになり、そこで都の人に宛てて次のような歌を詠んだとされています。

わくらばに問ふ人あらば 須磨の浦に藻塩もしほたれつつ侘ぶと答へよ

もしも私のことを尋ねる人があるならば、藻を焼いて塩を採ると言い習わすあの須磨の浦で、泣く泣く侘び暮らしていると答えて下さいよ。

このエピソードは、『源氏物語』に描かれた光源氏の須磨退去の物語のモデルともなっているもので、政治的不遇の身にとっての閑居の地としての、須磨のもの寂しいイメージを形づくったエピソードであるといえます。この物語が、本作の前提知識として存在しています。

本作に登場する松風・村雨という姉妹の海女は、もとより実在の人物ではありません。さきに挙げた『古今和歌集』などの古典作品には登場しない、本作のオリジナルな登場人物となっています。本作の作者は、この松風・村雨という人物を創作することによって、『古今和歌集』などの正統的古典には描かれない、もうひとつの行平の物語を描こうとしていたといえましょう。いわば、行平をめぐる、須磨という土地の記憶であり、行平の故事にまつわる秘説として、本作は語られているといえます。

ところで、この在原行平といえば、『古今和歌集』に載せられている、次の歌を詠んだことでも知られていました。

立ち別れいなばの山の峰にふる松とし聞かば今かへりこむ

別れを告げて旅に出れば、そこはもう私の赴任先・因幡国。その因幡の山の峰に生えている「松」ではないが、あなたが私を「待つ」と聞いたならば、私はすぐにも帰って参りましょう。

この歌は、ほんらいは行平が因幡国いなばのくにに国司として赴任するときに詠んだものなのですが、本作ではこの歌を、行平が松風・村雨に対して「いつかまた必ず戻って来るぞ」と言い遺した言葉として作中に取り入れられており、上記「8~9」の場面において松風の恋慕の心を高揚させる上で効果的な役割を果たしています。行平を思い出して泣いていた松風の恋心は、行平の形見を手に触れ、身にまとうことで次第にエスカレートしてゆき、一曲のクライマックスである〔中之舞〕へと突入してゆきます。松風の心にいまも燃えつづけている恋の情念が、音楽的な高まりとあいまって次第に舞台上に放出されてゆき、情緒的でありながらも情熱的な舞台を形づくっています。

海辺を照らす淡い月光、打ち寄せる波の音。もの寂しげな須磨の地を舞台に展開される、恋の情念の物語となっています。

 

(文:中野顕正)

近年の上演記録(写真)

2016年10月定期公演「松風 見留」シテ:浅見真州

(最終更新:2017年1月)

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