三山(みつやま)
◆登場人物
前シテ | 女 じつは桂子の霊 |
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後シテ | 桂子の幽霊 |
ツレ | 桜子の幽霊 |
ワキ | 良忍上人 |
ワキツレ | 随行の僧 【2人】 |
アイ | 土地の男 |
※ワキツレは、登場しない演出もあります。 |
◆場所
大和国 耳成山の麓 〈現在の奈良県橿原市〉
概要
念仏の教えを弘めるべく、大和を訪れた良忍上人(ワキ)。彼が名所・大和三山のひとつ耳成山に向かうと、一人の女(前シテ)が現れる。聞けば、この大和三山には、ある昔物語が伝わっていた。それは、耳成の里の女・桂子と、畝傍の里の女・桜子とが、香具山の男を巡って争い、恋に敗れた桂子は耳成池に入水したというもの。そう明かした女は、自分こそその桂子の霊だと明かすと、耳成池の水底へ姿を消すのだった。
その夜、良忍が三山の故事を偲んでいると、桜子の霊(ツレ)が現れる。耳成の山風に吹き揉まれ、苦しんでいると訴える桜子。するとそこへ、例の桂子の幽霊(後シテ)が姿を現した。恨みの言葉を述べつつ、桂の枝で桜子を打ち据える桂子。しかし桜子もまた、負けじと桜の枝で対抗する。そうする内に夜は明け、二人は消えてゆくのだった。
ストーリーと舞台の流れ
1 ワキ・ワキツレが登場します。
平安後期。京都大原の僧・良忍上人(ワキ)は、愛欲や憎悪に満たされたこの世の有様を悲しみ、そんな苦しみの世に生きる人々を救うべく、念仏の教えを弘めていた。“一人は皆のため、皆は一人のため”との志のもと、念仏の功徳を人々と分かち合いたいという、彼の願い。そんな彼の教えに共鳴する人々の数は、日ごとに増加の一途を辿っていた。
この日、良忍一行は次なる布教の地を求め、大和を目指して旅するところである。
2 ワキはアイと言葉を交わし、大和三山について教わります。
大和の地に到った良忍は、万葉集の名所“大和三山”を見物しようと、土地の男(アイ)に声をかける。聞けば、大和三山とは一つの山の名ではなく、北の耳成山、南の香具山、西の畝傍山の総称なのだという。それは、上代の都・飛鳥の地を囲む、いにしえの人々の心のふるさと。そう教えられた良忍は、名所見物のため、まずは耳成山へと足を運ぶ。
3 前シテが声を掛けつつ登場し、ワキと言葉を交わします。
そのとき背後から、一人の女(前シテ)が呼び止めた。「もうし、誰にお尋ねになろうとも、大和三山の故事を詳しく知る人はいますまい。それは昔、耳成池に沈んだ人の、妄執の物語——」 女は言う。昔、香具山の麓に住んでいた男は、畝傍の里の桜子、耳成の里の桂子という、二人の女と契りを交わしていた。愛を巡って争う二人。それこそが、“香具山を巡って畝傍と耳成とが争った”という、万葉の歌の真実であった。結果、池へと身を投げて果てた桂子。そんな彼女を、どうか弔って欲しいもの…。
4 前シテは、大和三山の故事を語ります(〔クセ〕)。
※下記「5」を省略し、ここで中入する演出もあります。
——夜ごとに畝傍・耳成の里へ行き通い、二人の女に愛を語る男。二人は男の愛を求め、花よ月よと争うが、やがて彼の愛は桜子に傾き、耳成の里への訪れは絶えた。恨み嘆く桂子。思えば、彼からの愛情など、もとより頼み少ないもの。ましてや花盛りの桜子に、心が移るのは仕方ない。春の長雨の中、物思いは募る。ああ、桜子のいる畝傍の里の、何と栄えていることよ! 今は生きても甲斐なきこと、この夕暮れこそ最期の時なのだ。そう覚悟した桂子は、耳成池に身を投げ、そのまま空しくなったのでした…。
5 前シテは、自らの正体を明かして姿を消します。(中入)
昔物語を偲ぶ女。彼女は、そんな苦しみ多き世の理を見つめつつ、自らもまた良忍の念仏に結縁したいと申し出る。名を尋ねる良忍。しかしそのとき、彼女は意外な言葉を口にした。「実は、私の名こそ桂子。この身は、今はこの世に亡き者——」 そう告げると、彼女は良忍から念仏を授かり、そのまま耳成池へ姿を消すのだった。
6 アイがワキに物語りをします。
そこへやって来た、先刻の男(アイ)。良忍は男に、当地に伝わる大和三山の故事、万葉集の古歌の物語を尋ねる。良忍は、男の言葉に耳を傾けつつ、往時に思いを馳せる。
7 ワキが弔っていると、ツレが登場します。
桂子・桜子の昔を偲び、その妄執を晴らしてやろうと供養する良忍。すると、折からの激しい夜嵐の中、一人の若い女(ツレ)が現れた。「耳成の山嵐に吹き揉まれ、乱れるばかりの私の心。どうか、花にまとわりつく嵐を退け、我が狂乱を助けて下さいませ——」 女は、かの桂子と争った畝傍の女・桜子の幽霊であった。
8 後シテが出現し、ツレを苦しめます(〔カケリ〕)。
その時。桜子の背後に、年闌けた一人の女(後シテ)が現れた。彼女こそ、かの桂子の幽霊。「ああ、何と妬ましい桜子よ。花の春は今また訪れ、満開の桜は月桂の光をも遮ってしまう。今を盛りの桜子へ、私の恨みは増さるばかり。しかし、桜も散れば青葉となる。桂も桜も、どこに違いがあるというのだ…」 桜子に迫る桂子。桂子は、手にした桂の枝で桜子を打ち据え、恨みを晴らそうと苦しめる。
9 後シテとツレは争い、やがて消えてゆきます。(終)
花盛りの春の中で、美貌を誇る桜子。そんな彼女へ、桂子は言う。「短い春とともに、花は散ってゆくという。しかし新たな年が訪れれば、再び咲き誇る身となるではないか。妬ましいこと。耳成の山風よ、吹き寄せてあの花を散らしてしまえ…!」 打ち据えようとする桂子と、それに対抗する桜子。二人は、執心のままに争い続ける。
そんな夢物語のひとときも、終わりの時刻が近づいていた。明けゆく春の空の下、ついに執心を晴らした二人。二人は、明け方の光の中へ、そのまま消えていったのだった——。