銕仙会

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曲目解説

盛久もりひさ
従容として死地に赴く、平家の侍 盛久。しかし彼はやがて、人智を越えた大いなる力の働きを目の当たりにする。運命と奇蹟を前にした、一人の人間の心の機微。
作者 観世元雅(世阿弥の子)
場所 本作では、物語の進行にあわせて場所が次々と移ってゆきます。
清水寺(京都) → 京から鎌倉への道中 → 捕虜収容所(鎌倉)
 → 処刑場(鎌倉) → 源頼朝の御所(鎌倉)
季節 晩春
分類 四番目物 侍物(男舞物)
登場人物
シテ 平家の侍 平盛久 直面 大口モギドウ出立(捕虜の扮装)
〔物著〕で、掛直垂大口出立(上級武士の扮装)
ワキ 源頼朝の家臣 土屋三郎 直垂上下扮装(上級武士の扮装)
ワキツレ 土屋三郎の従者 梨子打側次大口出立(武士の扮装)
ワキツレ 護送の輿を担ぐ侍(二人) 大口モギドウ出立(輿を担ぐ役人の扮装)
間狂言 土屋三郎の従僕 肩衣半袴出立(下級武士の扮装)
※ストーリー上では、下記「9」~「11」の場面で源頼朝も登場することになっていますが、実際には舞台上には登場しません。

概要

源平の合戦後、囚われの身となった平家の侍 盛久(シテ)は、源頼朝の家臣 土屋三郎(ワキ)に護送され、京から鎌倉へ下ることとなった。長年清水寺の観音を信仰してきた盛久は、最期の望みとして清水寺参拝を土屋に願い、これを果たすと、東海道を下って鎌倉に至る。処刑は明日と知らされ、盛久は『観音経』を読誦して観音に最後の祈りを捧げる。明朝、彼は処刑場に赴くが、処刑執行人が太刀を振り下ろそうとした刹那、太刀は折れ、盛久は助かる。すぐさま源頼朝に召された盛久は、暁どきに不思議な夢を見たことを明かす。実は、処刑に先立ち少しまどろんでいたところ、観音から「汝に代わるべし」との夢託があったのだった。すると頼朝は、自分も同じ夢を見たと明かし、盛久が助かったのは観音が起こした奇蹟によるものであったと判明する。感涙に咽ぶ盛久。頼朝は盛久のために酒宴を催し、めでたい席に相応しい舞を舞うよう所望する。盛久は颯爽と舞を舞ってみせ、天下泰平を言祝ぐ。

ストーリーと舞台の流れ

1 シテ・ワキ・ワキツレ(従者)・ワキツレ(輿舁)が登場します。

「土屋どの。お願いがある、聞いては下さらぬか…。このたび鎌倉へ赴いた後は、二度と京へは戻って来られまい。最後に一度、清水寺への参詣を許してくだされ」

源平の合戦の余燼が、未だ消えやらぬ頃。京から鎌倉へと赴く一行があった。輿の中には、合戦ののち囚われの身となった平家の侍、盛久(シテ)。彼は、護送の任にあたっていた源頼朝の家臣 土屋三郎(ワキ)に、清水への参詣を願い出る。一行は、清水へと向かうことにした。

2 シテは清水寺に参詣し、祈りを捧げます。

――ひとたび祈っただけでも霊験あらたかな、清水の観音様。まして長年祈りを捧げてきたこの私。観音様とのご縁は、どうして空しいものでしょうか。ああ、お名残り惜しい…。
清水寺の花盛りも、これで見納め。とめどなく溢れ出る音羽の滝の水は、私の心を映したよう。都の春はこれが最後、二度と帰らぬ東への旅路…。

3 鎌倉への道中の様子が謡われ、シテ・ワキたちは旅路を進みます。

京を出、逢坂山を越えてゆく。往来の人々が行き交う逢坂の関。思えば世の中は、出会いと別れに満ちている。会うは別れのはじまりなのだな…。勢田の長橋、鏡山。熱田の浦を過ぎ、浜名の橋を渡ってゆくと、小夜の中山が見えてくる。むかし西行法師が『命なりけり』と詠んだ地、間もなく命を失う私は、もう二度と来ることはない。富士の雪を横目に過ぎ、箱根の山を越えると、早くも鎌倉に着いたのだった――。

4 シテは自らの心中を述懐します。

「無という境地、その中に悟りの道は存在する。今までそのことに気づかず、あれこれと空しく探し求めてきたことよ。百年の栄華は塵中の夢。末永く一緒にと誓った友も今はなく、この鎌倉で、私はたった一人…。生き恥をさらす位なら、すぐにも斬られたいものだ」
鎌倉で幽閉の身となった盛久は、ひとり述懐する。

5 ワキはシテに面会し、処刑の命令が下ったことを伝え、慰めます。

そこへやって来た土屋。「頼朝様より、すぐに斬れとのご命令。処刑はこの暁か、明晩になるでしょう。」 かねて覚悟の盛久は、土屋に今までの礼を述べ、死後の回向を頼む。
「土屋どの、私は今まで清水寺の観音様を信仰してきました。今日の分の読経が済んでおりませんので、この場で少しお時間を頂きましょう。」

6 シテは『観音経』を読誦し、有難い経典の文句についてワキと語りあいます。

盛久は『観音経』を読誦しはじめる。読経もこれが生涯で最後。彼は、澄んだ声で、高らかに読み上げる。「或遭王難苦 臨刑欲寿終 念彼観音力 刀尋段段壊(たとえば支配者によって囚われ、処刑されそうになったとき、観音の力を信ずるならば、処刑の刀はバラバラに砕けてしまう)――」
「この有難い経文を信ずるならば、貴方の命も助かるでしょう」と慰める土屋。しかし盛久はいう。「本当にその通りです。しかし私は、命が惜しくてこの経文にすがるのではありません。観音様のお力で死後の苦しみを逃れたい、ただそればかりです…」

そうする内に、夜も更けてゆく。土屋は帰ってゆき、盛久はひとり残される。

7 シテは刑場へと向かい、斬首の座につきます。

「これは不思議。少しまどろんでいる内に、不思議な霊夢をこうむった。有難いことよ…。」
時刻は暁どき。夜明けを告げる鳥の声が、辺り一面にこだまする。かねて覚悟の盛久は、経典と数珠を手に、刑場へと向かってゆく。死後の世界への、旅の門出。
刑場に着いた盛久は、斬首の座につくと、清水寺の方角を拝み、静かに死のときを待つ。土屋の従者(ワキツレ)が盛久の後ろにまわり、太刀を振り下ろそうとした、その時…、

8 ワキツレ(従者)が刀を振り上げますが、取り落とし、刀が折れた旨が謡われます。
間狂言はワキと言葉を交わし、その間にシテは扮装を替えます(〔物著ものぎ〕)

経巻の放つ光に眼が眩み、従者は太刀を落としてしまう。見ると、太刀はバラバラに砕けていたのであった。さては先刻読んだ経典の文句が、そのまま事実となったのか。人々はこの経文の奇蹟を前に、ただ茫然と立ち尽くすのであった。

間もなく、この事を聞いた頼朝からの命令が下り、盛久は急ぎ将軍御所へと向かう。土屋の従僕(間狂言)は盛久を烏帽子・直垂の正装姿に着替えさせ、頼朝の御前へと案内する。

9 シテは霊夢の様子を語ります(〔クリ・サシ・クセ〕)。

参上した盛久に、土屋は声を掛ける。「頼朝様はこの暁、不思議な霊夢を御覧になったとのこと。そなたはどうじゃ。」 盛久は、自分も見たといい、その様子を語り始める。

――昨晩は、観音様に祈るのもこれが最期と、一晩中読経しておりました。すると暁どき、八十歳ほどの老僧が、香染めの袈裟に水晶の数珠という出で立ちで現れ、鳩の杖にすがり、私に告げるのです。「私は都 清水からやって来た。汝は長年、私を信仰していたな。そなたの命に代わろう」と。そのまま夢は覚め、そのときの喜びは譬えようもありません…。

10 頼朝の言葉が地謡によって語られ、疑いなき観音の功徳が明らかになります。

すると頼朝からは、意外な言葉が飛び出して来た。「実は、私がこの暁に見た夢も、それと同じものだったのだ。」 さては疑いもなく、清水の観音様のご利益であったのか。夢から覚めた心地の盛久。彼の目からは、涙が溢れ出す。
御前を退出しようとする盛久を、頼朝は制止する。観音の奇蹟に心動かされた頼朝は、盛久の命が末永からんことを言祝ぎ、盛久に盃を下す。

11 シテは、酒宴の座において御代を言祝ぐ〔男舞〕を舞い、この能が終わります。

頼朝は盛久に、このめでたい席でひとさし舞うように命じる。盛久は治まる御代を言祝ぎ、喜びの舞を舞いはじめる。
時節は春。曇りなき青空、長閑な日の光に包まれ、鶴岡八幡宮の松の緑も鮮やかに照り映える。すがすがしい陽気の中、颯爽と舞う、盛久の舞い姿。
やがて、長居は畏れ多いと、盛久は退出してゆく。世にも見事な、彼の振る舞いであった。

みどころ

本作では、清水寺の本尊である観音菩薩の霊験がテーマとなっています。

上記「6」の場面でシテ盛久が読誦する『観音経』というお経は、本来は『法華経』のうちの「普門品(ふもんぼん)」という章で、それが独立して一つの経典のように扱われるようになったものです。この『観音経』では、観音菩薩に祈ることによってさまざまな災厄から逃れることができると説かれており、その中には、本作で描かれる「死刑に処せられそうになっても刀が折れて助かる」というもののほか、「呪いをかけられたり毒殺されそうになっても、かえって自分を害しようとした者にその害が跳ね返る」「大洪水に流されそうになっても、浅瀬にたどり着いて助かる」などさまざまな観音のご利益が述べられています。能〈田村〉の終曲部に登場する「呪詛諸毒薬…還著於本人」というフレーズも、その中の一つとなっています。

本作では、その『観音経』の記述によりながら、処刑の瞬間に起こった奇蹟をひとつの見せ場とすることで、死に臨んだ盛久の心理と、そこから一転して奇蹟を目の当たりにした後の彼の心理を、巧みに描き出すことに成功しています。上記「10」の場面で盛久は、自分が助かったのは疑いもない観音の力によるものだと知り、感涙に咽びますが、そのように、人智を越えた大いなる力を目の前にしたときの人間の心理が、この作品では細やかに描かれているといえましょう。

また、本作前半の、盛久が京都から鎌倉へと護送されてゆく道中を描いた場面では、東海道の名所などが巧みに謡い込まれ、その中で、二度と還らぬ旅路をゆく盛久の心理が描かれています。

じつは、この道中の場面は、南北朝時代に作られた謡い物の難曲〈東国下とうごくくだり〉から採られたものとなっています。この作品は、能ではなく、独吟の形で謡われる謡い物の作品として作られたものであり、また長大な内容に難しい節付けがなされた作品であるため、上演はきわめて稀ですが、盛久が鎌倉へと護送される道中を綴った作品として、本作と深い関係を有していることが知られています。

この〈東国下〉は、観阿弥・世阿弥を足利義満に引き合わせた海老名南阿弥陀仏という人物によって節付けされたもので、世阿弥にとっても思い出深い作品であったことでしょう。その世阿弥の息子にあたる観世元雅が、この〈東国下〉を作中に取り入れる形で書いたのが、本作となっているのです。

そして、この〈東国下〉もまた、中世文学の伝統的表現を踏まえる形で作られた作品となっています。鎌倉時代、東海道を往来する人々が増えたことで、「紀行文」というジャンルの文学が盛んになりました。阿仏尼(藤原定家の息子為家の妻)の『十六夜日記』などがその代表作として知られていますが、こうした紀行文学の担い手たちは、ある人は訴訟のため、またある人は修行のため、さまざまな思いを胸に秘めながら東海道を旅しています。紀行文学においては、そうした感慨を東海道のそれぞれの名所に託すことで、作者自身の思いが綴られています。〈東国下〉や本作に見られる、東海道を旅する盛久の心中描写も、そうした紀行文学の中で育まれてきた表現の伝統を踏まえて、書かれたものということができましょう。

道中の様々な名所を見ては、盛久は死に臨んだ自らの心を見つめ直します。そして、観音の大いなる力を目の当たりにすると、彼ははらはらと涙を流し、ただただ、奇蹟を噛みしめます。死と向き合い、人智を越えた存在と向き合う一人の人間の心の機微が、細やかに描き出された作品となっています。

(文:中野顕正)

過去に掲載された曲目解説「盛久」(文・中司由起子)

近年の上演記録(写真)

(最終更新:2017年5月)

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