錦木(にしきぎ)
◆登場人物
前シテ | 錦木売りの男 じつは錦木の男の霊 |
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後シテ | 錦木の男の幽霊 |
ツレ | 細布売りの女 じつは錦木の女の霊 |
ワキ | 旅の僧 |
ワキツレ | 同行の僧 【2‐3人】 |
アイ | 土地の男 |
◆場所
陸奥国 狭布(きょう)の里 〈現在の秋田県鹿角市か〉
概要
僧の一行(ワキ・ワキツレ)が陸奥国 狭布の里を訪れると、この里の夫婦(前シテ・ツレ)が現れた。“錦木”と“細布”を売り歩く二人。それは、恋歌の題材として名高い、里の特産品であった。聞けば、古来この里には、求婚に際してこの錦木を用いる風習があった。中には三年もの間、愛する女の家へ錦木を運び続けた男もいたという。そう明かした二人は、その男を葬った「錦塚」へ一行を案内すると、塚の内に姿を消してしまう。実は二人こそ、その三年求婚し続けた男と、相手の女の霊であった。
その夜、僧の眼前に現れた、先刻の夫婦(後シテ・ツレ)。二人は、千夜ものあいだ通い続けた、恋の苦悶の記憶を懺悔する。やがて男は、遂に願いが叶ったときの喜びの記憶を胸に、歓喜の舞を再現して見せるのだった。
ストーリーと舞台の流れ
1 ワキ・ワキツレが登場します。
陸奥国を目指して旅する、僧の一行(ワキ・ワキツレ)があった。陸奥国といえば、日本列島の最果て、東北の奥に位置する国。そんなこの国へ分け入ることは、“心の奥”を尋ねることにも通じるという。修行の地を求め、旅路をゆく僧たち。やがて一行は、この国の一地方、狭布(きょう)の里へと到着した。
2 前シテ・ツレが登場します。
そこへ、この里に住む男(前シテ)と女(ツレ)がやって来た。「乱れ心もこの身ゆえ。声を上げて泣き続け、いつになったら袖の乾く日が来ることか。起きるともなく寝るともなく、物思いに耽るばかりの日々。心の雨は止むことなく、思いを寄せてもくれない人を慕い続ける毎日よ。月日は徒らに過ぎてゆき、この身に恋の成就する時は来ない。百日千夜を経たとても、甲斐なきことの悔しさよ…」。
3 ワキは、前シテ・ツレと言葉を交わします。
夫婦と思しきこの男女。声をかける僧へ、女は鳥の羽で織った“細布”を見せ、男は飾り立てた木の枝“錦木”を差し出す。いずれも古歌に詠まれた、名高い当地の特産品であった。錦木を三年のあいだ立て置くことを「千束(ちつか)」と言うのは、いにしえの恋の苦悶の物語に因む表現。また細布は“胸合わぬ恋”の象徴。いずれも、憂き名を立て、恨みに寄せて詠む歌に織り込まれた、恋慕の道に名高い品なのであった。
4 前シテは、錦木の故事を語ります。
男は、この錦木にまつわる昔物語を明かす。「古来この里では、男が女に求婚するとき、この錦木を女の家の前に置く風習があります。女は、承諾するときは錦木を家の内へ取り入れ、拒絶するときは外に置いたままにします。ある者などは諦めきれず、三年もの間、毎日錦木を置き続けました。“千束”というのも、そうして積み上がった錦木のこと。その男はこの大量の錦木とともに葬られ、今に“錦塚”と呼ばれています——」。
5 前シテ・ツレは、ワキを錦塚へ案内し、姿を消します。(中入)
僧たちを案内する二人。既に日は暮れかかり、一行は細道を分け入ってゆく。露草の道を迷い行く我等こそ、恋路に彷徨う人間のすがたに他ならぬ。願わくば、真実の仏の道を知り、この迷いの世から遁れたいもの…。そう口にしつつ、肌寒い秋の、ひっそりとした山陰を先導する二人。やがて、一行は目的地に辿り着いた。二人は、僧たちに錦塚を教えると、そのまま塚の内へと姿を消すのだった。
6 アイが登場し、ワキに物語りをします。
そこへやって来た土地の男(アイ)。僧は男と言葉を交わし、この錦塚の故事を尋ねる。男の語る物語。それは、先刻の夫婦の言葉に寸分違わぬものだった。さては先刻の二人こそ、この塚の被葬者の霊だったのか。そう気づいた一行は、二人の亡魂を弔おうとする。
7 ワキが弔っていると、後シテ・ツレが出現します。
経を手向ける僧たち。するとその声に引かれ、先刻の女(ツレ)が現れた。そのとき塚の中からも、先刻の男の声。「夫婦の契りを交わすことすら、これほどまでに難しいのが世の理。ましてや逢い難いものは仏の教え。しかし今、お坊様のおかげで、こうして救いに出逢うことができました…」 錦木を千束に積み上げた、あの三年間の物語。今こそ、それを明かすとき。その声とともに、男の霊魂(後シテ)が姿を現した。
8 後シテ・ツレは、生前の様子を再現し始めます。
見れば、塚の内部は人家のようになっていた。機織りの道具が設えられ、あまたの錦木が積み上がる。「心の闇に迷い続けた私。『夢か現実か、それは世の人が判断すればよい』とは古人の言葉。夢であれ現実であれ、そんな私の過去をお見せしましょう…」 機を織る女。男は錦木を手に門を叩くが、返答の言葉は無い。かすかに聞こえるものは、きり、はたり、ちょう。それは、機織りの音か、秋の夜の虫の声か——。
9 後シテは、恋の苦悶のさまを明かします(〔クセ〕)。
——男は錦木を運ぶ。家の内には女、外には男。互いに相手の気配を感じつつも、門は固く閉ざされたまま。そうする内に夜は明け、男は力なく帰ってゆく。月日は流れ、錦木は朽ちゆくが、世間では憂き名が立ってしまった。去年も終わり、今年も暮れ、通うこと千夜に及ぼうとしている。いっそ私も、錦木の山とともに、このまま朽ちてしまえたら! なぜほんの少しも逢ってはくれないのかと、三年の間、私は悶々とし続けたのです…。
10 後シテは、恋の成就を喜び(〔黄鐘早舞〕)、消えてゆきます。(終)
「やがて、錦木の山は千束に及びました。三年間ものあいだ欠かさず通い続けた私の誠意は、ようやく彼女へ届きます。今こそ、結ばれる時がやって来たのです…!」 契りの盃を交わし、恋の成就に歓喜する男。男はこの日々の感慨に耽りつつ、舞の袖を翻す。
こうして明かされた、錦木の夫婦の物語。そうするうち、空は早くも白みはじめ、二人の姿は消えてゆく。あとには野中の塚だけが、そこには残っていたのだった。