野守(のもり)
◆登場人物
前シテ | 野守の老人 じつは鬼神の化身 |
---|---|
後シテ | 鬼神 |
ワキ | 旅の山伏 |
アイ | 土地の男 |
◆場所
大和国 春日野 〈現在の奈良県奈良市〉
概要
大和国 春日の里を訪れた山伏(ワキ)。見ると、一人の老人(前シテ)が、野中の溜まり水に姿を映しつつ佇んでいた。老人は、自らをこの野の野守と名乗り、古歌に詠まれた“野守鏡”とはこの水のことだと教える。昔、この野の野守が帝の鷹を捜し出して栄誉を得たのも、この水鏡のおかげ。老人は、往時を慕って涙する。しかし一方で、真実の野守鏡とはこの水ではなく、鬼神のもつ明鏡をさすのだと明かす老人。山伏はその鏡も見たいと望むが、老人はそんな彼の願いを断ると、野中の塚に姿を消してしまう。
なおも真実の鏡を拝みたいと願う山伏。山伏は、自らの法力によってこれを叶えようと、一心に祈りを捧げる。すると、明鏡を携えた鬼神(後シテ)が、塚の中から出現した。鬼神は、全宇宙のすがたを明鏡の内に映し出し、山伏へ世界の真実を見せ示すのだった。
ストーリーと舞台の流れ
1 ワキが登場します。
南都。それは、いにしえの旧都の面影を今に伝える地。軒を連ねる寺社の数々は霊気を湛え、生命力に充ち満ちた上古の余風が、そこには今なお息づいている。
その南都を訪れた、一人の山伏(ワキ)。修行のため南の山々を目指す彼は、その途上、この里に足を留めたところ。彼は、辺りの名所を訪ねつつ、里の内を廻っていた。
2 前シテが登場します。
折しも、三笠山がのどかな姿を見せ、栄えゆく世を体現する春。古歌にも詠まれた、この山の風情。そして、やわらかに降りそそぐ春の日ざしは、まさしく“春日”の里の名に違わぬもの。これこそが、里に生きる人々を見守る、神仏の恵みの姿なのであった。
そんな春日野の地に現れた、一人の老人(前シテ)。彼は、この野の野守であった。穏やかな日ざしの下、彼は野中の溜まり水のほとりに佇みつつ、神徳を仰ぐ様子である。
3 ワキは、前シテと言葉を交わします。
声をかける山伏へ、老人は言う。「この水こそ、野守が朝夕姿を映す名所“野守鏡”。しかし真実の野守鏡とはこの水ではなく、鬼のもつ明鏡をいうのだとか。昼はこの野の野守と現れ、夜は鬼となってこの塚に棲んだという、古き世の物語…」 古歌にも詠まれた野守鏡をめぐる、二つの説。そう明かすと、老人はこの水に自らの姿を映してみせる。水面に映る老いの姿に、老人は昔を慕いつつ、いにしえの故事を思うのだった。
4 前シテは、野守鏡の故事を語ります。
古歌に詠まれた“箸鷹の野守の鏡”もこの水のこと。関心を示した山伏へ、老人は語る。「昔、この地で狩りをしていた帝は、誤って鷹を逃がしてしまった。その時、この水に映る鷹の姿を見つけた野守は、みごと居場所を探し当てたのだ——」 思えば、それは治まる御代のこと。賤しき野守の身ながらも、帝の賞美にあずかった栄誉の記憶。老人は、その昔物語を懐かしみ、往時に思いを馳せて涙する。
5 前シテは、自らの正体を仄めかして姿を消します。(中入)
老人の口から明かされた、野守鏡をめぐる一説。それでは、もう一説にいう鬼神の明鏡とは、いったいどのような品なのか。真実の鏡を見たいと願う山伏へ、老人は告げる。「鬼神の持つという鏡を、どうやってお見せ出来ましょう。野守ならば鏡の在処を知っているはずだと、貴殿はそう疑うのですね。しかしその鏡は鬼の鏡、人が見れば必ずや恐怖を抱くのです。お見せすることは叶いません。この水鏡だけ、見ていて下さい——」 そう言い遺すと、老人は野中の塚に姿を消すのだった。
6 アイが登場し、ワキに物語りをします。
そこへ通りかかった、この里の男(アイ)。山伏は男と言葉を交わし、野守鏡の故事を尋ねる。男の語る言葉に耳を傾けていた山伏。そうする内、山伏は気づく。実は先刻の老人こそ、鏡を守る鬼神の化身だったのだ。
7 ワキが祈っていると、後シテが出現します。
「このたび目の当たりにした奇跡。それが叶ったのも、全ては我が験力ゆえ。これまでの修行の功が偽りの無いものならば、鬼神の持つという明鏡を、いま眼前に出現させ給え。南無帰依仏…!」 山伏は心魂の限りを尽くし、塚に向かって祈りを捧げる。
すると、その声に応じるように、天地は俄かに鳴動しはじめた。そして——、明鏡を携えた鬼神(後シテ)が、塚から姿を現した。
8 後シテは、鬼神の威勢を示します(〔舞働〕)。
鏡に映るものは、ギロリと光る鬼の眼。思わず恐怖の心を抱いた山伏を見て、鬼神は塚へ帰ろうとする。しかし山伏は鬼神を呼び留め、なおも法力によって鏡を拝したいと願う。時刻は深夜。肝胆を砕いて数珠を押し揉み、これまでの修行の日々を思いつつ一心に祈る山伏。そんな彼の誠意を前に、鬼神は山伏のため、鏡を使って見せようとする。
9 後シテは鏡を使って見せ、そのまま去ってゆきます。(終)
東西南北にまします神仏や、上は天界の頂点まで、隈なく映し出す明鏡。そして鏡を大地に向ければ、地獄の底で責め苦を受ける罪人の姿が現れた。それはさながら、閻魔庁にあるという浄玻璃の鏡。これこそが、善悪を正す鬼神の秘宝なのであった。
こうして、鏡の真実を示した鬼神。鬼神は、今は地獄へ帰ろうと告げると、そのまま大地を踏み破り、奈落の底へ戻っていったのだった。