過度に緊密化した国際関係は、時としてトラブルをもたらす。その中で煩悶する、ある男の物語――。
作者 | 不詳 |
場所 | 九州 箱崎(現在の福岡県福岡市) |
季節 | 不定 |
分類 | 四番目物 唐物 |
シテ | 面:朝倉尉など 着流尉出立(老翁の扮装) | |
子方(ツレニモ) | 中国の子(二人) | 側次大口出立(中国人の扮装) |
子方 | 日本の子(二人) | 腰巻モギドウ出立(日本人の子どもの扮装) |
ワキ | 箱崎の何某 | 直垂上下出立(領主の扮装) |
間狂言 | 何某の従者 | 肩衣半袴出立(下級武士の扮装) |
間狂言 | 中国船の船頭 | 官人出立(中国人の扮装) |
概要
ストーリーと舞台の流れ
1 ワキが登場し、舞台背景を説明します。
室町時代。東アジア海域は空前絶後の活況を呈していた。日本海を取り巻く各地域の商人たちが海上交易に乗り出し、日本や中国・朝鮮の商船が、海上を盛んに行き交っていた。
しかし、交流が盛んであった分、トラブルもまた多かった。中国船と日本船の争いによって、相手国に抑留される者も現れた。この物語の主人公・祖慶官人もまたその一人。中国出身の彼は、九州箱崎の何某(ワキ)のもとに抑留され、牛飼いの仕事を命じられていた。
2 子方(中国の子)二人が登場して日本への旅の道中を謡い、ワキと対面します。
祖慶官人には、故郷中国に遺してきた二人の子供(子方)があった。父が日本に抑留されてから、今年で早くも13年。父の面影を恋い慕う二人は、遥か日本への旅を決意した。
はるばる日本海を渡り、箱崎に着いた二人。二人は、船頭(間狂言)が仲介してくれたことで、箱崎の何某に対面できることとなった。何某は父を引き合わせようと二人に約束するが、卑賤な牛飼いの仕事をさせていることは子供達に言えないでいた…。
3 シテと子方(日本の子)二人が登場します。
そこへ、祖慶官人(シテ)が二人の子(子方)を連れて帰ってきた。実は祖慶官人は、日本在留中に新たに子供を儲けていたのであった。「故郷に遺した二人の子も恋しいが、日本で新たに生まれた二人の子も愛おしい。この子たちが居なかったならば、私は弱り果ててしまうじゃろう…。」 祖慶官人は、故郷中国の牛馬の話などを子供達に語って聞かせる。そうこうする内、三人は家に着いたのであった。
4 ワキはシテと言葉を交わし、子方(中国の子)二人を引き合わせます。
帰ってきた祖慶官人に、何某は尋ねる。「そなた、故郷に二人の子を遺してきたであろう。その者たちが、そなたを迎えに、はるばるここまで訪ねて来たぞ。」
祖慶官人は、何某に案内され、二人の乗ってきた船へと向かう。13年ぶりの、親子の再会。「これは夢か」と、親子は感涙にむせぶ。幾多の苦難を乗り越えて遙々日本までやって来た孝行息子たち。その姿に、そばで見ていた何某たちもまた、涙するのであった。
5 ともに船に乗ろうとする子方(日本の子)をワキは制止し、シテは子方(中国の子)と子方(日本の子)の間で板挟みになります。
その時、風向きは変わった。船は出帆の準備にかかる。日本の子たちも父に続いて船に乗ろうとするが、何某はそれを制止する。「お前たちはこの地で跡を継ぐ者、行くことはならぬ!」それを聞いて父は嘆く。中国の子たちは親を連れて帰ろうと袖を引き、日本の子たちは老父との別れを惜しんで袂に縋りつく。板挟みになった父。思い余った彼は身を投げようとするが、子供たちに留められてそれも叶わず、力なく座り込んでしまうのだった。
6 ワキは子方(日本の子)の乗船を許し、シテは喜びの舞を舞います(〔楽 〕)。
さすがの何某も、この光景を見て心動かされる。「人情を知らぬ者というのは、木石も同じこと。よし分かった、日本の子たちの乗船も許してやろう。」 それを聞いた祖慶官人は大いに喜び、これも神のご加護かと感涙にむせぶ。
かくて、父と四人の子を乗せた船は、箱崎の港を離れ、沖へと漕ぎ出してゆく。船中では祖慶官人が、喜びの舞を舞いはじめるのだった。
7 ワキに見送られつつ船は去ってゆき、この能が終わります。
沖ゆく船から聞こえてくる、嬉しげな舞の音楽に、見送る何某も囃し立てる。日本海は順風満帆、船は次第に遠ざかる。喜びいさむ人々の声。船は、故郷・中国への波路を急ぐのであった…。
みどころ
能楽が大成された中世後期、日本海における海上交易は大変な賑わいを見せ、日本・中国・朝鮮半島にまたがる交流は活況を呈していました。
南北朝時代、政府の管理下に属さない民間の交易集団たちが、日本海を舞台に活躍していました。倭寇(わこう)と呼ばれた彼らは、時には掠奪などの海賊行為もおこないながら、日本と中国・朝鮮との交易を盛んにおこなっていました。
室町時代に入ると、そういった政府の統率下に入らない民間集団を排除しつつ、政府間のレベルでの国際交流がおこなわれるようになります。中国に成立した王朝・
ところが、こうした交流の緊密化は、時としてトラブルをももたらします。足利義満のあとを継ぎ、世阿弥の後期のパトロンともなった足利義持は、中国に臣従することを屈辱ととらえ、明王朝との交流を断ってしまったことで知られていますが、その足利義持の治世には、「
そういった、国際関係の緊密化と、それに伴う国際問題の発生という時代背景のなかで、本作は成立したのでした。
過度に緊密化した国際関係の中で生じたトラブル。それによって故郷から引き剥がされ、家族を引き裂かれた人間の苦悩…。それは、現代社会にも通じるテーマなのかもしれません。
(文:中野顕正)