銕仙会

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曲目解説

鵜飼(うかい)

◆登場人物

前シテ 漁師の老人  じつは亡霊
後シテ 冥府の鬼
ワキ 旅の僧
ワキツレ 同行の僧
アイ 土地の男

◆場所

 甲斐国 石和(いさわ)の里  〈現在の山梨県笛吹市石和町〉

概要

僧の一行(ワキ・ワキツレ)が甲斐国 石和の里を訪れると、漁師の老人(前シテ)が現れた。殺生の罪深さを説く僧たちへ、それでも生きてゆくためには漁をする他ないと言う老人。老人は、数年前に密漁で捕まり、見せしめとして殺された老漁師のことを語ると、自分こそその亡魂だと明かす。老人は懺悔として、鵜を使って漁をする“鵜飼”のさまを見せ、罪業への恐れすら忘れて漁に熱中してしまう心の内を明かすのだった。
やがて、一行が法華経を手向けて漁師を弔っていると、冥府の鬼(後シテ)が現れる。地獄に堕ちていた例の漁師は、生前に旅の僧を一晩泊めて接待した功徳により、このたび安楽な世界へ送られることとなった。鬼はそう明かすと、罪人すら救ってしまう法華経の功力を讃歎するのだった。

ストーリーと舞台の流れ

1 ワキ・ワキツレが登場します。

長い旅路をひた歩む、僧の一行(ワキ・ワキツレ)があった。彼らは、もとは安房国 清澄(きよすみ)の人。法華経を体得すべく、深い山に籠もって修行の日々を送っていた彼らは、あるとき思い立ち、甲斐国への旅を志した。
江戸湾を渡り、鎌倉を過ぎ、甲斐路を分け行く一行。やがて到った石和の里。時刻は夜、一行はこの里で、一夜を明かすこととした。

2 ワキは、宿を借りようとアイに声をかけ、断られます。

今夜の宿を借りるべく、この里の男(アイ)に声をかける僧。しかしこの里には、余所者に宿を貸してはならぬという禁制があった。すげなく断られてしまった一行。聞けば、石和川のほとりに建つ一軒の堂ならば、泊まることが出来るという。ところが、その堂には怪異があり、光る物が出るとの噂。僧たちは、仏法の力を頼みつつ、その堂へ向かう。

3 前シテが登場します。

川辺の堂で休む一行。すると噂に違わず、火の光が近づいてきた。その正体は、松明を手にした漁師の老人(前シテ)であった。「苦しみの世を直視し、厭い捨てるのが道理というもの。しかし漁の面白さの前には、そんな心など起こらない。月光を憎み、闇夜を喜んでしまう愚かさよ。そんな心の果てに、闇路へと赴いてしまった身の因果。先非を悔いてももう手遅れ。命を継ぐ生業を手放すことの出来ない、身の儚さよ…」。

4 ワキは、前シテと言葉を交わします。

老人は、鵜を使って魚を捕る“鵜飼”の漁師であった。聞けば、月が出ている間はこの堂で休み、月が沈むと漁を始めるのだという。その言葉に、殺生に明け暮れることの罪深さを思い、他の方法で生計を立てるよう諭す僧。しかし老人は、ずっとこの道を生業としてきた身、今さら職業を変えることなど出来ないと嘆く。

5 ワキツレは、以前出会った漁師のことを思い出します。

そんな老人の言葉に、供の僧(ワキツレ)はあることを思い出した。数年前、この川の下流、岩落(いわおち)という地区を通りかかった彼は、その時も一人の老漁師に出会ったという。そのとき殺生の罪を説いた僧へ、罪滅ぼしとして一夜の接待をおこなった、その時の老漁師。その記憶を語る僧へ、老人は言う。「ああ、貴方があの時の…。その漁師は、もうこの世にはおりません。それも、他ならぬこの生業のせいで——」。

6 前シテは、殺された漁師のことを語り、自らの正体を明かします。

——この一帯は、殺生禁断の地。しかし川下の岩落地区に住む漁師たちは、毎晩この地へ忍び込んでは、密漁を繰り返していました。ある夜、密漁者を捕らえようと待ち構えていた、この里の男たち。そこへやって来たのが、かの老漁師でした。一斉に飛び出し、彼を捕縛した男たち。漁師は涙ながらに命乞いをしましたが、見せしめとして簀巻きにされ、川に投げ込まれてしまいます。その漁師の亡魂こそ、他ならぬ私の正体なのです…。

7 前シテは、漁の様子を再現して見せ(〔鵜之段〕)、姿を消します。(中入)

老人は、懺悔として鵜飼の様子を見せようと告げる。川に放たれた鵜。篝火に驚く魚たちを、鵜は次々と追いまわす。水へ潜って魚を呑み、小気味よく獲物を捕ってゆく鵜。その刺激的興奮を前にしては、罪への恐れも、悪業への意識も、今の老人には関係ない。
漁に熱中する老人。しかし、その興奮も長くは続かなかった。月が昇りはじめ、篝火の影は次第に薄らぐ。老人は名残りを惜しみつつ、そのまま冥府へ消えてゆくのだった。

8 アイがワキのもとを訪ね、漁師のことを語ります。

そこへ、先刻の里の男(アイ)が、僧たちの様子を見にやって来た。僧は男へ、数年前に起こった、密漁の老漁師を見せしめに捕らえた一件のことを尋ねる。男の語る言葉に、耳を傾けていた僧。僧は、先刻の漁師こそその亡霊だと確信する。

9 ワキ・ワキツレが弔っていると、後シテが出現します。

夜。僧たちは川原の小石を拾い、法華経の字句を記して川に沈めつつ、かの亡魂を弔う。
するとそこへ、冥府の鬼(後シテ)が現れた。「長年殺生を重ねてきた例の漁師は、地獄へ堕ちることに決まっていた。しかしかの者には、生前、出家者を一晩泊めて接待した功徳がある。その功徳により、彼はいま、安楽な世界へ送られる身となった。法華経の功徳の風は罪障の雲を吹き払い、真如の月を顕現させるのだ——」。

10 法華経の功徳が讃美され、この物語の教訓が明かされます。(終)

地獄の罪人すら安楽な世界に送ってしまう、法華経の奇瑞。苦しみの世から抜け出すことの叶わぬ衆生も、法華経の功力によって救われる。“誰もが仏になれる”という教えの前には、堕地獄を免れ得ない極悪人までもが、悟りの道に至るのだ…。
慈悲の心をもち、修行者へ施しをするならば、いかなる罪人なりとも救済される。この顛末を見るにつけ、旅の僧への布施行を、誰もが心して実践すべきである——。

(文:中野顕正  最終更新:2025年04月29日)

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