銕仙会

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曲目解説

浮舟うきふね
「この浮舟ぞ 寄る辺知られぬ」——二人の貴公子の間で板挟みとなり、一旦は死をも覚悟した女性、浮舟。薫や匂宮への愛、寄る辺なき身の心細さ…。『源氏物語』最後のヒロインの、心の内を鮮やかに描き出す。

作者

作詞:横越元久よこおもとひさ
) 
室町幕府管領 細川満元の被官、歌人。
作曲:世阿弥

場所

前場:京都の南 宇治の里(現在の京都府宇治市)
後場:京都の北東 小野の里(比叡山麓。現在の京都府京都市左京区 上高野小野町)

季節

不定

分類

四番目物 執心女物

登場人物

前シテ

里の女

面:深井、増など 水衣女出立(舟を漕ぐ女などの扮装)

後シテ

浮舟の霊

面:十寸髪、増など 唐織脱下女出立(狂乱する女性の扮装)

ワキ

旅の僧

着流僧出立(僧侶の扮装)

間狂言

里の男

長裃出立(庶民の扮装)

概要

旅の僧(ワキ)が宇治の里を訪れると、小舟を漕ぐ一人の女(シテ)が現れる。女は僧に、『源氏物語』に登場するヒロイン・浮舟の故事を物語り、「小野の里を訪ねよ」と告げると、消え失せてしまった。実はこの女こそ、浮舟の霊であったのだ。僧が小野の里を訪れ、読経をしていると、浮舟の霊(後シテ)が現れ、二人の貴公子の間で板挟みになった自分の苦悩、横川の僧都に救われたときの様子などを語り、今また僧の供養によって天界に生まれることができたと明かすのであった。

ストーリーと舞台の流れ

1 ワキが登場し、自己紹介をします。

ここは、京都の南方 宇治の里。この里を流れる宇治川の激しい川音が、あたり一面に響き渡る。あらゆるものを洗い流すような、その激しい川の流れ…。

この里を通りかかる、一人の僧(ワキ)がいた。奈良の初瀬はつせの地から京を目指して上ってきた彼は、名所であるこの里にさしかかり、暫く休息することにした。

2 シテが登場します。 

そこへ、宇治川を渡る一艘の柴積み舟が現れた。舟には、一人の女性(シテ)。「この舟のように寄る辺のない、今のこの身。それも全ては私の心が招いたこと、いったい誰を恨んでよいものか…。」 救いを求め、神仏に祈りを捧げる、頼りなげな彼女の姿。

3 ワキはシテと言葉を交わします。 

僧は彼女に言葉をかけ、この宇治の里にまつわる昔語りを所望する。女は答える。「『源氏物語』のその昔、この里には浮舟とかいう女性が住んでいたとやら。しかし私は賤しい身、どうして詳しく語ることができましょう。光源氏の息子のかおるさまなぞ、『宇治という名すら聞きたくない』と仰ったと言うのに…。」 川のあなたには夕煙が立ち、空には雲が流れゆく。女はこの宇治の情景を眺めながら、昔恋しさに涙するのであった。

4 シテは、『源氏物語』に登場する浮舟の故事を語ります(〔クリ・サシ・クセ〕)。

――浮舟、それは薫さまがこの里に隠しておかれた女性。ところが、口さがなきは世の人の常。彼女の噂は、薫さまのライバル・匂宮さまに聞こえてしまう。宮は忍んでこの里に来られ、彼女の姿を垣間見られたのです。浮舟の姿に心奪われた宮は彼女に恋の歌を贈り、やがて深い仲となってゆきます。二人の貴公子の間で板挟みになった彼女は、「いっそこの世になき身となってしまおう」と決意し、遂に行方知れずとなってしまったのです…。

5 シテは自らの正体を仄めかして消え失せます(中入)。

浮舟の故事を語った女。「かく言う私は、都近くの小野の里に住む者。横川(よかわ)の近く、比叡坂の地をお訪ね下さい。今でも物の怪に取り憑かれ、苦しみ多きこの身。仏法の力をお頼みしております…。」 そう告げると、女は行方知れずとなってしまうのだった。

6 間狂言が登場してワキに物語りをし、退場します。

そこへ、この里の男(間狂言)が現れた。彼は僧に尋ねられるまま、いにしえ浮舟の故事を語る。先刻の女が浮舟の霊だと確信した僧は、彼女を弔うべく、小野の里へと向かう。

7 ワキが弔っていると、後シテが現れます。

女の言葉どおり、小野の里へとやって来た僧。僧は浮舟の霊を弔うべく、法事を始める。

そこへ、読経の声に導かれるようにして、浮舟の霊(後シテ)が姿を現した。「波間に浮かぶ舟のように、寄る辺なき身の有り様。…あの日、薫さまと匂宮さまの間で苦悩した私は、人々が寝静まった頃、身を投げようと宇治川へ赴きました。しかしその時、見知らぬ男の人に誘われて、それ以来、私は正気を失ってしまったのです…。」

8 シテは〔カケリ〕を舞い、茫然自失の姿を見せます。 

――意識のはっきりしない中、私は、ただ成り行きに自らをゆだねることしかできぬ身でした。それはあたかも、匂宮さまとの逢瀬の日、二人で宇治川の小舟に乗り、対岸の隠れ家に渡った、あのときの感覚のような…。

9 シテは、自分が死後に救われたことを明かして消え失せ、この能が終わります。 

「その後、初瀬の観音のご加護によって横川の僧都に発見された私は、この小野へと伴われ、僧都の加持祈祷によって物の怪も無事取り除かれたのです…。そして今また、あの時のようにお坊様の回向にあずかり、執心晴れて天界へと生まれることができました。」
そう告げると、彼女の霊は消えてゆく。杉の梢を吹く風だけが、あとには残っているのだった…。

小書解説

・彩色(さいしき)

通常の演出であれば、上記「8」の場面で〔カケリ〕を舞うのですが、この小書がつくと〔カケリ〕が〔イロエ〕に変わります。狂乱の様子を描き出す〔カケリ〕に比べ、しっとりと演奏される〔イロエ〕になることで、浮舟の、薫や匂宮への恋慕の情、寄る辺なき身の心細さなどが強調され、シテの心情がより一層鮮やかに描き出される演出であると言えましょう。

最近では、2012年7月の銕仙会定期公演で上演されました。

みどころ

本作は、『源氏物語』を典拠とする能です。
全五十四帖からなる『源氏物語』は、光源氏の出生から栄華を極めるまでの「第1部」(桐壺~藤裏葉)、栄華を極めた光源氏の苦悩の日々を描く「第2部」(若菜~幻)、光源氏の死後の物語である「第3部」(匂兵部卿~夢浮橋)の3部構成となっており、本作の主人公である浮舟は、このうち「第3部」に登場します。
「第3部」では、光源氏の子(実は柏木の子)であるかおると、冷泉院の皇子(光源氏の孫にあたる)である匂宮におうのみやの二人の貴公子が物語の主人公となっており、特に宇治を舞台に物語が展開する橋姫~夢浮橋の十巻は「宇治十帖」と呼ばれて『源氏物語』の掉尾を飾っています。この「宇治十帖」は、宇治に住む大君おおいぎみ中君なかのきみの姉妹、およびその異母妹である浮舟の、三人の女性をめぐる、薫・匂宮の二人の恋の物語となっており、いわば浮舟は『源氏物語』最後のヒロインとなっているのです。

はじめ宇治に住む大君を恋い慕っていた薫は、大君の死を受けて悲しみの淵に沈んでいました。そんなとき、薫が偶然出会ったのが、初瀬詣でから帰る途中の浮舟だったのです。彼女に大君の面影を見出した薫は、彼女を宇治に連れてゆき、そこに隠し置くことにしました。ところが、そのことが薫のライバル・匂宮に知られてしまい、宇治へ下った匂宮は、薫を装って浮舟と関係を持ってしまったのです。悠長に構える薫とは対照的な、匂宮の一途な情念に、浮舟も次第に惹かれてゆきます。遂に匂宮は浮舟を小舟に乗せ、宇治川の対岸にある隠れ家へと連れ出します。それは、夢のような耽溺の時間でした…。
やがて浮舟と匂宮との密通は薫に露見します。二人の貴公子の間で苦悩した浮舟は、遂に死を覚悟します。しかし、彼女が宇治川に身を投げようとしたその時、美しい男性に誘われたかと見えて、彼女は正気を失ってしまいました。そこに通りかかった横川の僧都は、小野の里へと彼女を伴い、祈祷によって彼女に憑いた物の怪を退散させてやります。世をはかなんだ浮舟は、遂に僧都のもとで出家してしまうのでした…。

本作は、この『源氏物語』のストーリーにかなり忠実な形で描かれており、その名の通り、波間に浮かぶ舟のように寄る辺なき身である浮舟の、頼りなさ・心細さが描き出されています。
本作の作者である横越元久よこお もとひさは、室町幕府の武士であり、歌人でもあった人物です。鎌倉時代の高名な歌人 藤原俊成が「源氏見ざる歌詠みは遺恨の事なり」(『六百番歌合』)と評したように、和歌の世界では『源氏物語』が必読の書として高く評価されており、本作の作者も、そのような和歌の世界で重視された『源氏物語』の教養に基づいて、本作を制作したと考えられています。

不遇の身であった自分を見出してくれた薫への愛、小舟に乗って束の間の逢瀬を楽しんだ匂宮との恋の記憶、俗世のしがらみに苦悩していた自分を救ってくれた僧都への感謝の念…。『源氏物語』最後のヒロインの“心の内”を鮮やかに描き出した作品となっています。

(文:中野顕正)

過去に掲載された曲目解説「浮舟」(文・江口文恵)

近年の上演記録(写真)

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