銕仙会

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曲目解説

采女うねめ
春の月が影を落とす、猿沢池の水面。現れた采女の幽霊の髪は濡れ、袖からは雫が滴り落ちる。それは、彼女が流した涙の跡…。
作者 未詳
場所 奈良 春日大社・猿沢池  (現在の奈良県奈良市)
季節 晩春
分類 三番目物 本鬘物
登場人物
前シテ 里の女  じつは采女の霊 面:若女など 唐織着流女出立(女性の扮装)
後シテ 采女の幽霊 面:若女など 長絹大口女出立(高貴な女性の扮装)
ワキ 旅の僧 着流僧または大口僧出立(僧侶の扮装)
ワキツレ 随行の僧(2人) 着流僧または大口僧出立
アイ 土地の男 長裃出立(庶民の扮装)

概要

旅の僧の一行(ワキ・ワキツレ)が南都を訪れると、春日の森で木を植える一人の女(前シテ)がいた。女は、今の森があるのも氏人たちが木を植えて神に手向けたからだと明かし、春日の霊地を讃える。やがて女は一行を猿沢池に案内すると、帝の寵愛が薄れたことを嘆いてこの池に入水した昔の采女の故事を語り、自分こそ采女の霊だと明かして消え失せる。

僧たちが弔っていると、池底から采女の霊(後シテ)が現れ、弔いに感謝する。采女は、歌と舞によって宮廷に仕え、人々の心を和らげていた自らの天職を誇らしげに語ると、かつて帝の愛を受けていた時のことを思い出し、懐旧の舞を舞う。彼女は、治まるこの世を讃え、御代の永遠を言祝ぐと、再び姿を消すのであった。

ストーリーと舞台の流れ

1 ワキ・ワキツレが登場します。

晩春の春日野。穏やかな日の光の下、辺りには霞が立ちこめる、のどかな弥生のある日。

この地へとやって来る、僧の一行(ワキ・ワキツレ)があった。京都の寺社巡礼を遂げた彼らは、今度は南都の寺社へ詣でようと、大和路を歩んできたのであった。

奈良へたどり着いた一行が見ると、御蓋山(みかさやま)の麓に建つ春日大社は、その名に恥じぬ春の盛り。一行は参詣のため、春日の神域へと入ってゆく。

2 前シテが登場します。

やがて、時刻は宵。やわらかな春の月が、ほの暗い春日の森を照らし出す。本殿に懸けられた瑠璃灯籠は淡い光を放ち、神域はひっそりと静まりかえっている…。

そこへ現れた、一人の女(前シテ)。「おぼろけな月光が木の間に洩れる、この森のうち。神様もさぞ、この静謐な風情をお喜びのはず。藤の花が今を盛りと咲き乱れる、春の宵…」 彼女は、手にしていた苗木を御蓋山に植えると、神に祈りを捧げるのだった。

3 ワキは前シテに声をかけ、前シテは春日社創建の故事を語ります。

これほどの深い森に、重ねて木を植える女。不審がる僧に、彼女は語りはじめる。

――奈良時代、神様がこの山の峰へ降臨されたばかりの頃。この御蓋山は、まだ木も生えぬ裸山でした。そこで神の子孫にあたる藤原の氏人たちはこぞって木々を植え、今ような深山となったのです。それゆえ、この神は木の葉一枚すらも惜しまれるとか。この山の全てが神仏の御恵み。むかし釈尊のおられた天竺霊鷲山にも等しい、聖なる山なのです…。

4 前シテはワキを猿沢池に案内し、昔この池に身を投げた采女の故事を語ります。

春日の森の故事を語った女は、僧を名所へ案内しようと言う。一行が向かったのは猿沢池。女は、昔この池に身を投げた采女を弔ってくれと頼むと、その故事を語りはじめる。

――昔、一人の采女がいました。采女とは帝に仕える女性のこと。帝に大そう愛されていた彼女でしたが、やがて帝の御心は他の方に移ってしまいます。彼女は勿体なくも帝を恨み申し上げ、この池に身を投げたのでした…。

5 前シテは、自らの正体を明かして消え失せます。(中入)

「帝が目にしたのは、変わり果てた采女の姿。艶やかな髪や眉は、池の藻屑と見まがうばかり。そんな、水面に浮かぶ彼女の亡骸に、帝は悲しみの歌を手向けるのでした。『かつて共寝した、愛しい人。しかし今や、その姿は池の藻屑と変わってしまった――』」。

そう語ると、女は水へと飛び込み、池底へと姿を消してしまう。実は彼女こそ、かの采女の幽霊だったのであった。

6 アイが登場し、ワキに物語りをします。

そこへやって来た、この地に住む男(アイ)。彼は一行の所望に応え、当地に伝わる采女の物語を語る。それは、儚くも悲しい、古代の恋の物語。それを聞いた僧たちは、彼女の魂を救おうと心に決めるのだった。

7 ワキ・ワキツレが弔っていると後シテが現れ、供養に感謝します。

夜の猿沢池。月は水面に影を落とし、波の音だけが、静寂の中にこだまする。

そんななか、僧たちの弔いの声に引かれて池の汀に現れた、采女の幽霊(後シテ)。「有難いこと。妙なる教えに導かれて、こんな私にも救いの道が開かれた。観音の浄土に広がる補陀落(ふだらく)の海にも等しい、この猿沢池。これこそ、女人成仏を遂げる南方世界さながらの聖なる空間。私は今この地で、悟りの道へと入ってゆくのですね…」。

8 後シテは、采女の徳を語りつつ舞います(〔クセ〕)。

――昔より、世の人々の心を和らげていた采女の徳。あれは奈良時代、葛城王が陸奥へ下向された時のこと。心の至らぬ現地のもてなしに、すっかり気分を害された王。するとその時、一人の采女が盃を取り、王へ歌を奉りました。『この地にそびえる安積山、その山容を映す泉の水こそ、我等が心。決して、浅はかに思ってはおりませんよ…』 この情ある言葉によって、王は機嫌を直されたのでした。そのように、宮廷に仕えて人々の心に寄り添うことこそ采女のつとめ。御遊の折々には花を添え、ゆったりと舞を舞うのです…。

9 後シテは〔序之舞〕を舞い、御代を讃えつつ消えてゆきます。(終)

「中でも懐かしいのは、曲水の宴のあったあの夜。盃の数も重なり、私は帝の御意を承って舞を舞うと、『この御代が万年まで続きますように』と歌を詠みました。――否、万年には限りません。聖なる御代よ、永遠なれ。天地はこんなにも穏やかなのですから…」。

ゆったりとした時が流れゆく、猿沢の水面。それは、治まれるこの世の姿。彼女は平和な御代を祝福すると、更なる回向を願いつつ、再び波の底へと消えてゆくのだった――。

小書解説

・美奈保之伝(みなほのでん)

この小書がつくと、上記「2・3・8」の場面が略され、舞台展開が大幅に変わります。まず、ワキ・ワキツレが南都に着いたところで前シテが彼らに声をかけつつ登場し、弔って欲しい人がいると言って猿沢池に案内すると、そのまま采女の故事を語り、自分こそその幽霊だと明かして姿を消します。やがて出現した後シテは、帝の寵愛を受けていた日々を懐かしんで舞を舞うと、再び波の底へと消えてゆく、という展開となります。

すなわち、通常演出であれば入水した采女の話題以外にも春日社創建の故事や『安積山』の和歌の故事などが語られるのに対し、この小書では入水した采女の故事以外の要素が省略され、亡くなった采女の思いに焦点が当たることになります。

またこれに伴い、後シテは熨斗目(のしめ)という衣で身を隠しながら登場し、池中から姿を現したことが視覚的に強調されるほか、舞も水に濡れた姿を表現するような演技となり、采女の哀れな身の果てが印象づけられる演出となっています。

(文:中野顕正)

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今後の上演予定

(最終更新:2018年3月)

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