銕仙会

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曲目解説

采女(うねめ)

◆登場人物

前シテ 女  じつは采女の霊
後シテ 采女の幽霊
ワキ 旅の僧
ワキツレ 同行の僧 【2人】
アイ 土地の男

◆場所

【1~3】

 大和国 春日大社  〈現在の奈良県奈良市春日野町〉

【4~9】

 大和国 猿沢池(さるさわのいけ)  〈現在の奈良県奈良市登大路町〉

概要

晩春のある日。南都を訪れた僧の一行(ワキ・ワキツレ)は、春日の神域の森で木を植える、一人の女(前シテ)に出逢う。今の森があるのは、氏人たちが木を植えて神に手向けたおかげ。女はそう明かすと、春日の霊地を讃える。やがて女は、一行を猿沢池に案内した。この池は昔、帝の寵愛を失った一人の采女が入水した場所。その故事を語った女は、自分こそその采女の霊だと明かすと、池の底へと消えてゆく。
その夜。僧たちが弔っていると、池底から采女の幽霊(後シテ)が現れた。歌と舞によって宮廷に仕え、人々の心を和らげていた、自らの天職。そう誇らしげに語った彼女は、かつて帝の寵愛を受けていた折のことを思い出し、懐旧の舞を舞う。彼女は、治まるこの世を讃え、御代の永遠を言祝ぐと、再び波の底に消えてゆくのだった。

ストーリーと舞台の流れ

1 ワキ・ワキツレが登場します。

晩春の春日野。穏やかな日の光の下、辺りには霞が立ちこめる、のどかな弥生のある日。
この地へとやって来る、僧の一行(ワキ・ワキツレ)があった。京都の寺社巡礼を遂げた彼らは、今度は南都の寺社へ詣でようと、大和路を急ぐ。
奈良に到着した一行が見ると、御蓋山(みかさやま)の麓に建つ春日大社は、その名に恥じぬ春の盛り。一行は参詣のため、春日の神域へと入ってゆく。

2 前シテが登場します。

やがて、時刻は宵。やわらかな春の月が、ほの暗い春日の森を照らし出す。本殿に懸けられた瑠璃灯籠は淡い光を放ち、神域はひっそりと静まりかえっている——。
そこへ現れた、一人の女(前シテ)。「おぼろけな月の光が木の間に洩れる、この森のうち。神様もさぞ、この静謐な風情をお喜びのはず。藤の花が今を盛りと咲き乱れる、春の宵よ…」 彼女は、手にしていた苗木をこの森に植えると、神に祈りを捧げるのだった。

3 ワキは前シテに声をかけ、前シテは春日社創建の故事を語ります。

これほどの深い森に、重ねて木を植える女。不審がる僧に、彼女は語る。
——奈良時代、神様がこの山の峰へ降臨されたばかりの頃。この御蓋山は、まだ木も生えぬ裸山でした。そこで、神の子孫にあたる藤原の氏人たちはこぞって木を植え、今ような深山となったのです。それゆえ、この神は木の葉一枚すらも惜しまれるとか。この山の全てが神仏の御恵み。むかし釈尊のおられた天竺霊鷲山にも等しい、聖なる山なのです…。

4 前シテは、ワキを猿沢池に案内し、采女の故事を語ります。

やがて女は、僧を名所へ案内しようと言う。一行が向かったのは猿沢池。女は、昔この池に身を投げた采女を弔ってくれと頼むと、その故事を語りはじめた。
——昔、一人の采女がいました。采女とは帝に仕える女性のこと。帝に大そう愛されていた彼女でしたが、やがて帝の御心は他の方に移ってしまいます。彼女は畏れ多くも帝を恨み申し上げ、この池に身を投げたのです…。

5 前シテは、自らの正体を明かして姿を消します。(中入)

「帝が目にしたのは、変わり果てた采女の姿。艶やかだった髪や眉は、今や池の藻屑と見まがうばかり。そんな、水面に浮かぶ彼女の亡骸に、帝は悲しみの歌を手向けます。『かつて共寝した、愛しい人。しかし今、その姿は池の藻屑と変わってしまった——』」。
そう語り終えるや、女は池の中へと入ってゆく。池底へと姿を消してしまった女。実は彼女こそ、かの采女の幽霊だったのだ。

6 アイが登場し、ワキに物語りをします。

そこへやって来た、この里の男(アイ)。男は一行の所望に応え、当地に伝わる采女の物語を語る。それは、儚く悲しい、古代の恋の物語であった。それを聞いた僧たちは、彼女の魂を救おうと決意する。

7 ワキ・ワキツレが弔っていると、後シテが出現します。

夜の猿沢池。月は水面に影を落とし、波の音だけが、静寂の中にこだまする。
やがて、僧たちの弔いの声に引かれて池の汀に現れた、采女の幽霊(後シテ)。「有難いこと。妙なる教えに導かれ、こんな私にも救いの道が開かれました。観音様の浄土に広がるという、補陀落(ふだらく)の海。その海にも等しいこの猿沢池で、私は今、女人成仏が叶うのですね…」。

8 後シテは、采女の徳を語り舞います(〔クセ〕)。

——昔より、人々の心を和らげていた采女の徳。あれは奈良時代、葛城王が陸奥へ下向された時のこと。心の至らぬ現地のもてなしに、すっかり気分を害された王。するとそのとき、一人の采女が盃を取り、王へ歌を奉りました。『この地に聳える安積山、その山容を映す泉の水こそ我等が心。決して、浅はかに思ってはおりませんよ——』 この心ある言葉によって、王は機嫌を直されたのでした。そのように、宮廷に仕えて人々の心に寄り添うことこそ采女のつとめ。御遊の折々には花を添え、ゆったりと舞を舞うのです…。

9 後シテは舞を舞い(〔序之舞〕)、御代を讃えつつ消えてゆきます。(終)

「中でも懐かしいのは、曲水の宴のあったあの夜。盃の数も重なり、私は帝の御意を承って舞を舞うと、『この御代が万年まで続きますように』と歌を詠みました。——否、万年には限りません。聖なる御代よ、永遠なれ。天地はこんなにも穏やかなのですから…」。
ゆったりとした時が流れゆく、猿沢の水面。それは、治まるこの世の姿。彼女は、平和な御代を祝福すると、更なる廻向を願いつつ、再び波の底へと消えてゆくのだった。

(文:中野顕正  最終更新:2025年03月08日)

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