熊野(ゆや)
◆別名
湯谷(ゆや) ※他流での表記。
◆登場人物
シテ | 池田宿の遊女 熊野(ゆや) |
ツレ | 熊野の侍女 朝顔 |
ワキ | 平宗盛(たいらのむねもり) |
ワキツレ | 平宗盛の従者 |
◆場所
【1~5】
京都 洛中
【5~6】
京都 清水寺への道中 〈現在の京都市東山区 松原橋~清水寺間〉
【7~9】
京都 清水寺 〈現在の京都市東山区清水〉
概要
遠江国 池田宿の遊女・熊野(シテ)は、平宗盛(ワキ)の寵愛を受け、都に留め置かれていた。病気の老母をもつ彼女は度々暇を乞うものの、なかなか帰郷の許しが出ない。そうする内、余命僅かの身を嘆く母の手紙をたずさえ、侍女の朝顔(ツレ)が訪ねて来た。熊野は手紙を宗盛の前で披露するが、宗盛はなおも帰郷を許さず、そればかりか彼女を花見の供に連れ出してしまう。
一行は東山へと向かい、熊野は京の様々な景物を目にしては愁いに沈む。やがて清水寺へ着いた宗盛たちは酒宴をはじめ、熊野は母の身を案じつつも桜をめでて優雅に舞う。そのとき、にわかの通り雨に散ってゆく花を見た熊野は、母の面影を重ねて歌を詠む。その歌に心動かされた宗盛は、ついに彼女の帰郷を許すのだった。
ストーリーと舞台の流れ
1 ワキ・ワキツレが登場します。
平安末期。政権を掌握した平家一門の栄華に、翳りが見えはじめていた頃。時の権力者・平宗盛(ワキ)は、遠江国 池田宿の遊女・熊野を寵愛し、彼女を側近くへと留め置いていた。病気の老母をもつ熊野はたびたび帰郷を願い出ていたが、宗盛の心にかかるのは都の花。栄枯盛衰の定めなき世、今年の花見が都で見る最後の春になるかもしれない――。そんな思いから、宗盛は花見が終わるまでの間、熊野の帰郷を許さずにいたのであった。
2 ツレが登場します。
その頃。都と東国とを結ぶ街道を、一人の女が旅していた。彼女の名は朝顔(ツレ)。熊野の侍女である彼女は、都へと召されていった主人を慕い、遥かの旅路をひた歩む。懐には、熊野の母から託された手紙。何度使者を出しても一向に戻ってこない熊野の身を気がかりに思いつつ、朝顔は京へと急ぐのであった。
3 ツレはシテを呼び出し、手紙を渡します。
熊野の滞在先にたどり着いた朝顔。見ると、熊野(シテ)は母の身を案じ、心ここにあらずといった様子である。
朝顔から手紙を受け取った熊野が開いて見ると、そこには、余命いくばくもない身を嘆く母の言葉が綴られていた。熊野は、この手紙を見せて改めて暇を乞うべく、朝顔を連れて宗盛の邸宅へと向かう。
4 シテは、ワキの前で母の手紙を読み上げます(〔文之段(ふみのだん)〕)。
宗盛の御前に進み出た熊野は重ねて帰郷を願い、母の手紙を読み上げはじめる。『いにしえ永遠の愛に名を留めた人々すらもが儚く終わり、釈尊とて死を免れることの叶わなかった、無常のこの世。私は朽ちゆく桜のような身、この春の花の頃すら待てるかどうか…。どうか宗盛様のお許しを得て、もう一度、顔を見せておくれ――』。
切々と綴られた母の思い。いにしえ老齢の親を慕ったという在原業平の古歌までもが思い合わされる、哀れな消息の言葉であった。
5 ワキはシテを牛車に乗せ、花見に連れ出します。
重ねて暇を乞う熊野。しかしなおも、宗盛には未練が残っていた。彼は、愁いに沈む熊野を慰めるためだと告げると、彼女を花見に連れ出してしまう。
一行が向かうは清水寺。折しも今は春爛漫、往来の人々で賑わう洛中を、花見車は過ぎてゆく。向かう先を見渡せば、白雲と見まがうばかりの花盛り。そんな東山を眺めつつ、熊野は嘆息するのだった。「あの山の、そのまた山の向こうで、お母様は待っている…」。
6 清水寺への道中が謡われ、シテは車の中から周囲の景色を眺めます。
――賑わう京都市中から、賀茂川を渡ると六波羅地蔵堂。仏に祈るは母の無事。しかしその心とは裏腹に、続いて通り過ぎるのは冥土へ続く六道辻。向こうに広がる鳥辺山では、火葬の煙が天へとのぼり消えてゆく。子安塔の名の響きは、親を思う子の身に迫り…。
所々の仏に祈り、静かに迫る死の影を恐れつつ、車窓から周囲の景色を眺める熊野。そんな物思いのうち、一行は早くも、花の名所・清水寺に着いたのだった。
7 シテは、花盛りの京中の様子を謡い舞います(〔クセ〕)。
本堂に上がり、一心に母の無事を祈る熊野。そんな彼女を待ちかね、宗盛は酒宴の席に召し出す。熊野は浮かない顔をしつつも、座を盛り上げて謡い舞うのだった。
――清水寺の鐘の声、地主権現の花の色。それは、諸行無常・盛者必衰の世のすがた。天竺霊鷲山の面影を伝える桂橋寺、南に見えるは熊野権現の遷座された今熊野神社。そんな山々に囲まれた、この清水の花盛り。それこそが、観音様の利生のお姿なのです…。
8 シテは〔中之舞〕、さらに〔イロエ〕を舞い、花を惜しむ和歌を書きます。
ひとさし舞い終えた熊野に対し、宗盛はさらに舞を見せるよう所望する。熊野は愁いを内に秘めつつも、花の下で優雅に舞いはじめる。
そのとき、にわかの通り雨が、辺りの花々を散らしてゆく。「きっとこの雨も、花の果てを惜しむ涙なのね…」 雨に打たれて萎れゆく花に、哀愁の心を催した熊野。彼女は、一首の和歌をしたためる。
9 ワキはついに帰郷を許し、シテは故郷へと帰ってゆきます。(終)
宗盛へ差し出された歌。『惜しまれる都の春。しかし、それにもまして惜しいのは、故郷でひとり散りゆく花――』 それは、落花に母の面影を見た、熊野の心の言葉であった。折からの雨の風情のなか、歌に心動かされた宗盛。彼はついに、熊野に暇を許してやる。
かくして、東へと下っていった熊野。都の方を振り返れば、爽やかな朝の光が、山々を照らし出していた。熊野は晴ればれとした心で、母のもとへと急ぐのだった――。