中国の仏教界を乗っ取り堕落させた中国の天狗・善界坊(シテ)は、日本の仏教界をも堕落させようと、京都愛宕山に住む日本の天狗・太郎坊(ツレ)のもとを訪れる。二人は比叡山を標的に定め、魔道に陥れる計画を練る。その後、天狗の所業によって京都では魔が蔓延ったので、勅命により僧正(ワキ)が祈祷を命じられたが、京都へ向かう道中を善界坊(後シテ)に襲われる。しかし僧正の祈りによって不動明王や日本の神々が現れ、善界坊は散々に懲らしめられて虚空へと逃げ去ってゆく。
作者 |
竹田法印定盛(室町時代の医師)か |
場所 |
前場:京都 愛宕山 |
季節 |
不定 |
分類 |
五番目物 天狗物 |
前シテ |
中国の天狗 善界坊 |
直面 山伏出立(山伏姿の者の扮装) |
後シテ |
同 |
面:大癋見(おおべしみ) 天狗出立(天狗の扮装) |
前ツレ |
日本の天狗 太郎坊 |
直面 山伏出立 |
ワキ |
比叡山の僧正 |
沙門帽子僧出立(高徳の僧の扮装) |
ワキツレ |
比叡山の高僧 |
大口僧出立(高位僧の扮装) |
間狂言 |
下働きの僧 |
能力出立(下働きの僧の扮装) |
概要
ストーリーと舞台の流れ
1 シテが登場します。
ここは日本海海上。あやしげな黒雲が、中国から日本の方へとやって来る…。
その正体は、中国の天狗・善界坊(シテ)。中国の有名な寺院を次々と乗っ取り仏法を堕落させた善界坊は、次なる標的を日本に設定し、こうしてやって来たのであった。
神々が仏法を守るという国・日本。善界坊は、その日本の仏法をも堕落させてやろうと意気込む。
2 シテはツレのもとを訪れ、日本を魔道に陥れる計画を立てます。
3 シテ・ツレは比叡山を目指して去ってゆきます(中入)。
過去の善根によって地獄などの悪道を免れながら、なお仏法に仇をなさねばならぬ哀れな生き物、天狗。自らの非力をも顧みず、慢心に慢心を重ねた彼らは、いざ、比叡山へと言うと、嵐とともに姿を消すのであった。
4 間狂言が登場し、これまでの事情を〔立チシャベリ〕で説明します。
その後、天狗の所業によって都には魔が広まり、大混乱に陥っていた。比叡山の飯室(いむろ)の僧正に退散の祈祷を行えとの勅命が下り、僧正のもとに下働きする坊主(間狂言)もその準備に追われている。
5 ワキ・ワキツレが登場し、そこにシテも登場します。
勅命を承った僧正(ワキ)は、供の高僧たち(ワキツレ)を引き連れ、比叡山から都へと向かっていた。するとそのとき、にわかに暗雲立ちこめ嵐吹き、雷鳴が轟き大地は震動する。そして…、天狗の首領・善界坊(後シテ)が現れた。
6 シテ・ワキは〔舞働〕で激しく争い、やがてシテが敗れてこの能が終わります。
僧正に仇をなす善界坊、僧正も負けじと一心に数珠を押し揉む。すると、僧正の祈りによって降魔の形相をたたえた不動明王とその眷属たちが現れた。東には比叡の山王権現、南には石清水の八幡大菩薩、他にも多くの神々が取り囲み、善界坊を責め立てる。翼も折れ、力も尽き果てた善界坊は、もう懲りごりと、虚空をさして逃げ去っていったのだった…。
小書解説
・白頭(しろがしら/はくとう)
みどころ
本作では、天狗たちが日本を乗っ取って「魔道の巷」にしてしまおうと暗躍していますが、能の成立した中世という時代は、天狗の「魔」の世界が大きく注目された時代でもありました。
保元の乱に敗れ讃岐に流された崇徳院は、その怨念たるや凄まじく、「日本国の大魔縁となり、皇を取って民となし、民を皇となさん」という呪いの言葉を遺して亡くなり、その後京都は魔縁(=悪魔)となった崇徳院の怨霊に悩まされたといいます。他にも政争に敗れ怨みを呑んで亡くなった人々が死後に魔・天狗となって社会を悩ませること数多く、中世日本では、社会全体として天狗・魔の世界が注目され、恐れられていました。中世に展開した神話の世界では、神代の昔、日本に仏教が弘まるのを妨害しようとした第六天魔王に対して、天照大神は仏教を守るための方便として「私の子孫がこの国を治めるようになるなら、仏教に関係するものは近づけないようにする」と偽りの約束したことで日本を譲り受け、それゆえ伊勢神宮では形式的に仏教に関する事を忌むのだ、という言説が生まれました。このように、「魔界」は中世日本のダークサイドとして、畏怖され続けていたのでした。
能が大成されるより少し前の鎌倉時代には、『天狗草子』という絵巻物が作られましたが、そこでは、日本の名だたる大寺院や仏教各宗派が実はみな天狗に乗っ取られていて、仏教界の堕落によって社会全体に魔が蔓延している姿が描かれています。中世、名家出身の僧が大寺院のトップに選ばれるなど既存宗派の俗化が激しく、また新仏教の乱立による宗派間の対立などもあり、仏教界全体が堕落し混迷している時代と考えられ、それは天狗の所業と考えられていたのでした。
しかし本作では、そういった中世日本のダークサイドである天狗・魔道を、決して暗く重い深刻な社会不安として描くことはせず、高僧にイタズラを仕掛けてこっぴどく退治される天狗としてユーモラスに描いています。能の成立した室町時代には他に、同じ説話を扱ったヲコ絵(滑稽な内容の絵巻物)である『
(文:中野顕正)