善界(ぜがい)
◆別名
是界(ぜがい) ※他流での表記。
是我意(ぜがい) ※他流での表記。
◆登場人物
前シテ | 唐土の天狗 善界坊 |
---|---|
後シテ | 同 |
ツレ | 日本の天狗 太郎坊 |
ワキ | “飯室(いむろ)和尚” 慈忍僧正 |
ワキツレ | 随行の僧 【2人】 |
アイ | 僧正の召使い |
※物語中では不動明王も登場しますが、舞台上には登場しません。 |
◆場所
【1~4】
京都西郊 愛宕山 〈現在の京都市右京区嵯峨愛宕町〉
【5~9】
京都 下り松(さがりまつ)付近 〈現在の京都市左京区一乗寺下り松町〉
概要
修行者たちの慢心に付け入り、中国の仏教界を堕落させた天狗・善界坊(前シテ)は、次なる標的を日本に定め、京都 愛宕山に棲む天狗・太郎坊(ツレ)のもとを訪れる。人々を魔道へと引き入れるべく、計略を練る二人。二人は、不動明王の威力を恐れながらも、最初の目的地・比叡山へと出発してゆく。
その後、都に蔓延った魔を鎮めるべく、比叡山の慈忍僧正(ワキ)が内裏へと召された。僧正一行が道を急いでいると、俄かに暗雲が立ちこめ、善界坊(後シテ)が姿を現す。魔仏一如の理を唱え、一行を誘惑する善界坊。しかし僧正は、魔仏一如の理ゆえにこそ、凡夫にも清浄心が宿るのだと反論する。そのとき、傍らには不動明王が顕現し、眷属や神々とともに善界坊を責め立てた。善界坊は力尽き、そのまま逃げ去ってゆくのだった。
ストーリーと舞台の流れ
1 前シテが登場します。
日本海の海上を飛行する、一体の影。それは、中国に隠れもない天狗・善界坊(前シテ)であった。慢心を起こした修行僧たちを、次々と堕落させていた善界坊。いにしえ弘法大師が学んだ青龍寺も、慧遠禅師のいた廬山の般若台も、既にわが手に堕ちた。彼が次の標的と定めたのは、日本。それは、世界の片隅に浮かぶ小国でありながら、神々の守護のもと、仏法が今に栄える国。そんな日本仏教の発展を妨げようと、彼は空の旅をゆく。
2 前シテは、ツレのもとを訪れます。
日本に着いた善界坊は、京都 愛宕山を訪れる。天狗の棲処に相応しい、山のすがたや木立の様子。彼は、この山の天狗・太郎坊(ツレ)を訪ね、自らの計略を明かす。その言葉に、太郎坊も協力を申し出た。最初の標的は比叡山。それは、顕教・密教の奥旨を今に伝える、日本仏教の本丸であった。窺い知ることすら難しい霊場だが、それだけに、慢心を起こしている修行者も少なくないはず。唯一の気がかりは、不動明王の威徳だが…。
3 前シテは、不動明王の降魔の威力を恐れます(〔クセ〕)。
——魔軍の一切を焼き尽くす不動明王は、人々の心の中に住するという。それでもなお、輪廻の道に迷い続け、魔境に沈んでしまうのが、人の心というもの。遥かなる前世に仏法を聴聞した、その力によって今の身があるとはいえ、鬼畜のごとき姿となり、仏法に仇なす魔となってしまった。今こそ悔い改める時。しかしそんな思いには至らず、慢心ばかりが増長してゆく。明王の剣に斬り伏せられるのを待つばかりの、儚いこの身の運命よ…。
4 前シテ・ツレは、比叡山を目指して去ってゆきます。(中入)
そうする内にも時刻は移る。覚悟を決め、太郎坊に先導されながら、愛宕山を出発してゆく善界坊。天高く架かる雲の橋を踏みしめ、霊場の山々を見下ろせば、比叡山の奥なる横川の地や、如意ヶ嶽までもが一望される。いにしえ釈尊が仏法を説いたという、かの天竺の霊鷲山(りょうじゅせん)にも等しい比叡の峰々。その様子を窺いつつ、二人の天狗は、嵐とともに姿を消すのだった。
5 アイが登場し、状況を説明します。
その後。善界坊の所業により、都は混乱の渦中にあった。事態を重く見た朝廷は、比叡山の奥、飯室(いむろ)の地で隠棲修行の日々を送っていた慈忍僧正に、魔を食い止める祈祷を命じる。僧正の召使い(アイ)も、都への出発の準備に追われていた。
6 ワキ・ワキツレが登場します。
やがて、内裏を目指してやって来た、慈忍僧正(ワキ)と従僧たち(ワキツレ)。天台の瞑想、真言の修法を体得した彼らは、道すがら、四方の景色を眺めつつ心を磨く。「花の春、梢の秋、時雨の冬に至るまで、それは諸法実相のすがたに他ならぬのだ…」。
そうするうち、下り松の附近に到った一行。すると、俄かに暗雲が立ちこめ、辺りには風雨が吹きすさぶ。雷鳴が轟き、震動する大地。この怪異に、さすがの一行も肝を潰す。
7 後シテが出現し、威勢のほどを見せます(〔立廻リ〕)。
そのとき、黒雲の中から、邪法を唱える声が聞こえてきた。『魔も仏も、本来一如の道という。この世に生まれた者は、誰もが魔境へと入ってしまうのだ——』 やがて姿を顕わした、声の主。それこそ、かの善界坊の真の姿(後シテ)であった。善界坊は魔の力を振るい、一行を威嚇する。
8 後シテは、ワキと激しく争います(〔舞働〕)。
「なるほど、たしかに魔仏一如という。しかしだからこそ、凡夫の心にも、聖人と等しく悟りの理が宿っているはず。そうした本来清浄の理こそが、不動明王の存在に他ならぬのだ…!」 僧正がそう反論するや、傍らに不動明王が顕現した。眷属の童子たちや神々とともに、降魔の威勢を見せる明王。善界坊も負けじと抗い、激しい戦いを繰り広げる。
9 後シテは敗れ、去ってゆきます。(終)
そのとき吹いてきた東風。そちらを見れば、そこには山王権現の姿があった。南には八幡大菩薩、西には松尾大明神。他にも北野や賀茂の神々が、善界坊を調伏しようと力を添える。この国の仏法を擁護し、帝都を守る神々の勢いに、さすがの善界坊も通力を失った。翅は破れ、そのまま地へと堕ちてゆく善界坊。「もはやこれまで、再び来ることはあるまい——」 その言葉を遺し、善界坊は、虚空へと逃げ去って行くのだった。