敦盛
苦しみに満ちた合戦の日々のなかで、わずかな心の支えとなった遊興のひととき。しかしその思い出は、同時に自らの死の記憶をも、呼び起こしてしまうものであった…。
作者
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世阿弥
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場所
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摂津国 須磨浦 (現在の兵庫県神戸市須磨区)
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季節
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仲秋
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分類
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二番目物 公達物
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登場人物
前シテ
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草刈りの男
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直面 水衣男出立(労働をする男性の扮装)
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後シテ
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平敦盛の霊
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面:敦盛など 修羅物出立(武将の扮装)
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ツレ(3‐4人)
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草刈りの男
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直面 水衣男出立
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ワキ
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蓮生法師(かつての熊谷直実)
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着流僧出立(僧侶の扮装)
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間狂言
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須磨浦の男
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肩衣半袴出立(庶民の扮装)
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概要
一ノ谷合戦で平敦盛を討ち取った熊谷直実は、悔恨の念から出家し、蓮生(ワキ)と名乗っていた。彼が敦盛供養のため須磨を訪れると、そこに草刈りの男達(前シテ・ツレ)が現れ、そのうちの一人が敦盛の縁者だと名乗る。蓮生から念仏を授かった彼は、自分こそ敦盛の霊だと仄めかし、姿を消してしまう。
その夜、蓮生の眼前に敦盛の霊(後シテ)が現れた。生前の復讐をしようとする敦盛だったが、蓮生は念仏の功徳の前に因縁など存在しないと告げ、敦盛は懺悔として生前の様子を物語る。やがて、再び妄執の心を起こした敦盛は蓮生に斬りかかるが、懇ろに弔う蓮生の姿を見て回心し、回向を願いつつ消えてゆくのだった。
ストーリーと舞台の流れ
1 ワキが登場します。
源平の戦乱の余燼が、未だ冷めやらぬ頃。須磨の地で繰り広げられた一ノ谷合戦において、我が子と同じ十六歳の若武者・平敦盛を討ち取った熊谷直実は、その悔恨の念から出家し、蓮生法師と名乗っていた。
日々念仏を唱え、敦盛の菩提を弔う蓮生(ワキ)。そんなある日、遂に意を決した彼は、敦盛との因縁の地・須磨へと赴くことにした。
2 前シテ・ツレが登場します。
爽やかな風が吹き抜けてゆく須磨浦。赤い夕日が海辺を照らし、男たちが家路を急ぐ頃。
須磨の地に至った蓮生の耳に、野風が笛の音を運んできた。吹いていたのは、草刈りの男たち(前シテ・ツレ)。「賤しい生業に追われる日々。我が身の貧しくなるままに、かつての友も次第に離れてゆく。いつの日か真実の友と出会えるだろうかと、それを頼みに命をつなぐ毎日よ…」。
3 ワキは前シテに言葉を掛け、二人は言葉を交わします。
蓮生は男たちに声をかける。賤しい身に似合わぬ風雅な行いに蓮生は感心するが、男は「身分の高下によって相手を侮ってはならない」とたしなめ、草刈り笛の風情は古歌にも詠まれる風雅なものだと教える。「人の行いを決めるのは、その者の心。身分ではありません。風雅な心さえ持っていれば、草刈りに相応しい笛もあるのです…」。
4 ツレは退場し、ひとり舞台に留まった前シテはワキと言葉を交わします。
やがて日も暮れてゆき、男たちは各々の家へと帰ってゆく。しかし、その中で一人の男(前シテ)だけが、どうしたわけか帰ろうとしない。
「お坊様…、」 男は蓮生に、念仏を授けてくれと頼む。聞けば、彼は敦盛のゆかりの者だという。蓮生は喜んで念仏を授け、二人は誓いの文句を唱える。『私が成仏した暁には、この世に留まる他の人々を、必ずや救ってあげましょう――』。
5 前シテは自らの正体を仄めかし、消え失せます(中入)。
ひとたび唱えただけでも救われるという、有難い念仏の功徳。その念仏を敦盛のため毎日毎夜手向けている蓮生に、男は感謝を述べる。「決して、お見捨てになってはなりませんよ。かく言う私の名は、わざわざ明かすまでもありません。あなたが明け暮れ弔っている相手、それこそが私の正体なのです…」 そう告げると、男は姿を消してしまうのだった。
6 間狂言が登場し、ワキと言葉を交わします。
そこへやって来た、この浦の男(間狂言)。蓮生は彼を呼び止め、敦盛の最期の様子を知っているかと尋ねる。男は当時の記憶を語り始める。「…それにしても、あの熊谷の憎いこと。奴がこの地に来ようものなら、この私が敦盛の仇を討ってやりますとも!」 感極まった男は敦盛の無念を口にするが、この僧こそかつての熊谷と知り、慌てて取り繕う。
男の語る言葉を、静かに受け止めていた蓮生。彼は、なおも敦盛の菩提を弔うのだった。
7 ワキが弔っていると、後シテが現れます。
先刻の草刈りの男こそ、敦盛の幽霊であった。蓮生は、ますます懇ろに敦盛の冥福を祈る。
するとそこに、敦盛の霊(後シテ)が現れた。「須磨の浦波、千鳥の声。苦しみの記憶が、胸の奥からこみ上げてくる。私の眠りを覚まし、修羅の巷へと駆り立てる、あの苦しみの記憶が…」。
8 後シテはワキと言葉を交わします。
「蓮生よ、生前の因縁に決着をつける時だ」 蓮生に挑みかかる敦盛。しかし蓮生は静かに教え諭す。「念仏の功徳は、あらゆる罪を消滅させる。過去の因果など、ありはしないのですよ…」。
宿敵・熊谷の面影は既になく、眼前にいるのは自分のため一心に祈る蓮生の姿。過去の因縁に囚われていた敦盛もまた、その姿を見て妄執の心を克服する。救い、救われる二人。これこそまさに、真実の友なのであった。
9 後シテは、平家一門の因果応報を語ります(〔クリ・サシ・クセ〕)。
敦盛は懺悔として、自らの抱えていた“罪”を語りはじめる。
――権勢をほしいままにしていた平家一門。しかしその栄華も、所詮は無常の世の一コマに過ぎなかった。あれは寿永二年の、秋の葉の散る頃。一門もまた逆風に吹かれ、流浪の身に。故郷を慕って叶わぬ、あてどない都落ちの旅。ようやくたどり着いたこの須磨は、波風荒い鄙の地。そんな鄙の地で朽ち果ててゆく、哀れな一門の運命なのであった…。
10 後シテは、生前の束の間の遊興を思い出し、舞を舞います(〔中之舞〕)。
「そんな辛い日々の中、いっときの気を紛らわせてくれたもの。二月六日の夜、父経盛は私たちを集め、歌を謡い、舞い遊んだのだった――」。
それこそ、あの合戦の前夜、敵陣から漏れ聞こえてきた笛の音の正体であった。「一門の人々が心を一つに、声を合わせて謡ったのだ…」 敦盛は、その遊宴の舞を思い出し、往時のありさまを再現しはじめる。
11 後シテは最期の様子を語り、ワキに回向を頼んで消えてゆき、この能が終わります。
「――それも長くは続かなかった。源氏の襲来を受け、一門の人々は船に乗り込み逃げてゆく。残された私は、沖ゆく船を呆然と見送るばかり。そのとき、背後からそなたが迫ってきたのだ…!」 過去の妄執が再びこみ上げてきた敦盛は、蓮生に斬りかかる。
しかし、彼の眼に映ったのは、一心に弔い続ける蓮生の姿。「一つ浄土で会おう。私を弔うその心を、忘れないでいておくれ…」 そう告げると、敦盛の姿は消えてゆくのだった。
みどころ
本作の主人公・平敦盛は、平清盛の弟・経盛の末子で、わずか十六歳(十七歳とも)にして一ノ谷合戦で命を落とした、薄幸の貴公子です。『平家物語』は、その最期を次のように伝えています。
――一ノ谷合戦で平家の敗北が確実となった頃。源氏方の武士・熊谷直実が落ち延びる平家の武将を探していると、沖ゆく船の方へと馬を泳がせる一人の武者を見つける。呼びとめる熊谷。引き返してきた彼の顔を見ると、なんと少年であった。熊谷はすぐさま彼を組み敷き、名を尋ねるが、彼は答えない。あまりの痛わしさに助けてやろうとする熊谷だったが、周りには既に源氏方の武士たちが集まり、とうてい逃げることはできぬ状況。熊谷は泣く泣く、彼の首を刎ねる。
彼の死骸を見ると、身には一つの笛。熊谷には思い当たることがあった。昨晩、源氏の兵士たちの耳に聞こえてきた、平家の陣中で吹く笛の音。さてはその笛の主は、この人であったのか。戦地にあって風雅を忘れぬ彼の姿に胸打たれた熊谷は、世の無常を悟り、法然上人の弟子となって出家を遂げたのだった。
後に聞けば、この貴公子こそ、平経盛の子・敦盛だったのであった…。
このエピソードの後日譚である本作は、出家した熊谷直実(蓮生法師)の眼前に敦盛の霊が出現するという、二人の再会を描いた物語となっています。そして、『平家物語』では熊谷の視点から物語が語られ、敦盛を討たざるを得なかった熊谷の苦悩が描かれるのに対し、本作では敦盛自身に自らの胸中を語らせている点に特色があります。いわば本作は、二人の再会を通して『平家物語』では語られなかったものを描き出す、“答え合わせ”のような作品だといえましょう。
それゆえ、『平家物語』には描かれなかった敦盛をめぐる物語が、本作では明らかになります。本作にも登場する〈敦盛が合戦前夜に笛を吹いていた〉というエピソードと〈熊谷に出会ったとき、敦盛は沖ゆく船を目指して馬を泳がせていた〉というエピソードは、『平家物語』の中ではあくまで別々の話とされていましたが、本作ではこの二つが結びつけられ、〈敦盛は一門の人々と遊宴を楽しんでいたが、にわかの戦闘開始に人々は彼を見捨てて逃げてしまい、残された敦盛が沖ゆく一門の船を茫然と見送っていた所に、熊谷がやって来たのだ〉と語られます。平家一門と苦楽をともにし、罪深き運命さえも共にしながら、最後の最後に見捨てられてしまった敦盛。そんな“友”の不在を嘆く彼の孤独が、本作には描かれているのです。
そんな敦盛が、来世まで続く〈真実の友〉としての関係を、それもかつての敵であったはずの蓮生との間に結ぶ――というのが、本作の結末となっています。
敦盛は、過去の妄執と現在との間で揺れていました。上記「8」の場面で蓮生との間に〈真実の友〉としての関係を確認しあったのも束の間、「11」の場面では再び妄執が湧き起こり、蓮生を斬ろうとします。懺悔として過去の辛い日々を語りはじめた敦盛は、その中で唯一の慰みであった遊興の思い出に浸って舞を舞い出しますが、実はそれは、自分が見捨てられ死に至った、その悲しみの記憶と一体のものだったのでした。束の間の喜びの思い出が、芋づる式に悲しみの記憶を呼び起こしてしまう…。そんな葛藤の中で、呼び起こされた憎しみの心に突き動かされ、敦盛は蓮生へと刃を向けるのです。
しかし、そんな敦盛の姿を、蓮生は静かに受け止めていました。既に俗世を離れ、敵味方のしがらみを捨てた蓮生。そうした利害関係を乗り越えた蓮生だからこそ、一門にさえ見捨てられた敦盛の、〈真実の友〉となってやることができたのだ――。本作は、そのような形で、結末を迎えることとなります。
孤独な嘆きに生きる敦盛と、俗世の怨讐を振り切った蓮生。仇敵同士であった二人がはじめて結ぶ友情の物語が、本作には描かれています
(文:中野顕正)
過去に掲載された曲目解説「敦盛」(文・江口文恵)