銕仙会

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曲目解説

野宮ののみや
変わりゆくものと、変わらぬもの。往時のままの野宮の光景に、御息所の心には過去への妄執が湧き起こり、自問自答を繰り返す。彼女の記憶とは、想いとは、人生とは、何だったのか――。
作者 金春禅竹
場所 京都郊外 嵯峨野 野宮の旧跡 (現在の京都市右京区嵯峨)
季節 晩秋 旧暦9月7日(現在の10月頃)
分類 三番目物 本鬘物
登場人物
前シテ 里の女 面:増など 唐織着流女出立(一般的な女性の扮装)
後シテ 六条御息所ろくじょうのみやすどころの霊 面:増など 長絹大口女出立(高貴な女性の霊の扮装)
ワキ 旅の僧 着流僧出立(僧侶の扮装)
間狂言 所の者 長裃出立(庶民の扮装)

概要

晩秋の嵯峨野を訪れた旅の僧(ワキ)が昔の野宮の旧跡を拝んでいると、一人の女(前シテ)が現れる。折しも今日・九月七日は、光源氏が野宮にいた六条御息所のもとを訪れた日。女は往時の様子を語り、手にしていた榊の枝を神前に手向けると、その時の御息所の心の内を明かす。彼女は、自分こそ御息所の霊だと告げると、姿を消してしまうのだった。
その夜、僧の夢の中に、牛車に乗った一人の貴婦人が現れる。彼女こそ、御息所の幽霊(後シテ)であった。御息所は、賀茂祭の車争いで負った心の傷を語り、寂しげな野宮の様子を見て感傷に浸りつつ、舞の袖を翻す。しかしやがて、彼女は再び車に乗ると、ひとり去ってゆくのであった。

ストーリーと舞台の流れ

1 ワキが登場します。

暮れゆく秋の花の色も物寂しい、京都郊外 嵯峨野の地。そんな晩秋の風情に惹かれてやって来る、一人の旅の僧(ワキ)があった。

鬱蒼と木々の茂る森。ひっそりとしたこの一帯は、むかし神に仕える皇女が精進潔斎をしたという「野宮」の旧跡であった。そして不思議なことに、遥かに時隔たった今なお、黒木の鳥居や小柴垣は往時のままに残っていた…。

2 前シテが榊(さかき)の枝を手にして登場します。

梢を吹きぬけてゆく木枯らしが肌寒い、残秋の森。そんな中、心静かに参拝していた僧の前に、一人の女(前シテ)が現れた。「秋の暮れ方。露に濡れて萎れた袖には、冷たい風が沁みわたる。恋の心はすっかり色あせ、この身は次第に衰えゆくが、それでもなお、消えるかと思えば湧きかえる、この思い。そうするままに、今年の今日もまた、昔の跡に帰ってきてしまった。来たところでどうにもならぬと、分かっているはずなのに――」。

3 前シテはワキと言葉を交わし、榊の枝を鳥居に供えます。

忽然と現れた女。不審がる僧に彼女は告げる。「ここは昔の斎宮さまの御在所。今も毎年九月七日には、私はこの地を清めて神事をするのです。余所人の来る所ではありません」。

九月七日。それは昔、六条御息所を慕って光源氏がこの地を訪れた日。その日源氏から贈られたのは、榊に付けた手紙であった。「世の中は移り変わり、変わらぬものはこの榊の緑ばかり…」 女は手にしていた榊を神前に供え、静かに祈りを捧げるのだった。

4 前シテは、御息所のもとを訪問した光源氏の故事を語ります(〔クリ・サシ・クセ〕)。

――孤独な御息所。夫・皇太子とは死別し、忍んで来ていた光源氏の足も次第に遠のく。だがそれでも、源氏は御息所を決して見捨てはしなかった。野宮の彼女のもとへ、うら枯れの秋の道を遥々やって来た源氏。こまやかに言葉を交わす二人の、心を通わせるひととき。その後、いよいよ伊勢に下向する日。寄る辺なき身の御息所は、源氏に別れの歌を贈ると、後ろ髪を引かれつつ、旅路へと赴いたのだった…。

5 前シテは自らの正体を明かして消え失せます(中入)。

御息所の心中を語る女。そのただならぬ様子に、僧はいよいよ不審がる。女は明かす。「名を明かすのも憚りながら、私は既にこの世に亡き身。遥かに時隔たった今なお、この世に遺すわが名の跡…。実は私こそ、六条御息所の幽霊なのです」。

秋の風が吹きわたり、梢からは月が顔をのぞかせる夕暮れ時。彼女は鳥居のもとへ立ち寄ると、薄暗がりの中に姿を消してしまうのだった。

6 間狂言が登場し、ワキに物語りをします。

そこへ、この土地の男(間狂言)がやって来た。僧は彼を呼びとめ、源氏と御息所の故事を尋ねる。物語を聞いた僧は、先刻の女が御息所の霊であることを確信するのだった。

7 ワキが弔っていると後シテが出現し、車争いの記憶を再現して見せます。

幽かな月の光が木の間に漏れる、夜の野宮。僧が弔っていると、そこへ牛車に乗った一人の貴婦人が現れた。彼女こそ、御息所の幽霊(後シテ)。「ああ、昔の記憶が蘇る。――あれは賀茂の祭の日。多くの人々が集うなか、やって来たのは今を時めく葵上。その随身たちに取り囲まれ、私の車は奥へと押し込められてしまった。そのときの非力さ…」。
この苦しみも罪の報い。御息所は救いを願い、僧にすがるのであった。

8 後シテは、〔序之舞〕を舞い、懐旧の念に浸ります。

御息所は昔を偲び、月光のもと、舞の袖をひるがえす。その月は寂しげに大地を濡らし、秋草に置く露はキラキラと輝く。この野宮の森までもが、昔を偲んで哀愁の思いに浸っているよう。「私がこの地にいたのも、もうすっかり昔のこと。小柴垣を、こうやって、露を払って来て下さったあの方も、もう遙かの夢となってしまった。変わらぬものは、リン、リンと鳴く虫の音ばかり。ああ、懐かしい…!」

9 後シテはさらに〔破之舞〕を舞って感傷に耽り、やがて消え去ってゆきます。

感極まった彼女は、再び舞を舞い出す。傷心の御息所の、妄執の舞。しかしその中で、彼女は次第に自らの心を整理してゆく。「この野宮は、畏れ多くも伊勢神宮に連なる宮。毎年こうしてやって来てしまうのも、鳥居をくぐらせることで私を救おうとの、神様の思し召しなのかもしれない…」 彼女はそう言うと、再び牛車に乗って去ってゆく。

彼女は、救われることができたのだろうか。苦しみ多き、この迷いの世界から――。

小書解説

・合掌留(がっしょうどめ)

この小書がつくと、上記「9」で舞われる〔破之舞〕の最後、シテは舞台正面に置かれた鳥居の作リ物に向かって合掌するという演出になります。生前への未練の象徴でありながら、同時に救済の聖域をあらわすシンボルでもある、野宮の鳥居。そんな鳥居と向きあう御息所の思いが強調される演出です。

・火宅留(かたくどめ)

通常の演出であれば、上記「9」の場面では「火宅の門(かど)をや出でぬらん、火宅の門」と謡われて終曲を迎えるところ、この小書がつくと、最後の「の門」を謡わず、「火宅の門をや出でぬらん、火宅…」という終わり方となります。囃子の余韻を残しつつ、「火宅」(苦しみ多きこの世 の意)の語を印象づける演出となっています。 またこれに伴い、所作の一部が変化することがあります。

みどころ

本作の題名ともなっている「野宮」とは、斎宮(さいくう)に選ばれた皇女が伊勢下向に先立って精進潔斎を行うための仮宮のことです。斎宮とは、天皇の代理として伊勢神宮に仕える未婚の皇女のことですが、この斎宮制度は南北朝の動乱期に途絶えてしまったため、本作が書かれた頃には既に過去の記憶となっていました。

この「野宮」を舞台とするエピソードが、『源氏物語』には描かれています。それは、ヒロインの一人・六条御息所にまつわる、次のような物語です。

――六条御息所の夫は、時の皇太子であった。ところが、その夫には早くに先立たれ、御息所は孤独な日々を過ごす。そんなとき通ってくるようになったのが、光源氏であった。多くの女性との交流をもっていた源氏。彼は御息所とも交際するようになったのだが、気位の高い彼女とはなかなか打ち解けることができない。源氏の足は次第に遠のき、仲は絶え絶えとなっていった…。

そんな時、事件は起こる。賀茂祭に出仕する源氏の晴れ姿を見ようと、お忍びで見物に出かけた御息所。そこへ源氏の正妻・葵上が割り込んできたのだ。権勢に誇る大臣の娘、今を時めく葵上は、御息所の車を押しのけて見物場所を奪い取ってしまう。恥辱を与えられた彼女は、心に深い傷を負ったのだった。

その後、御息所と亡き夫との間の娘が、伊勢の斎宮に選ばれた。先の一件ですっかり傷つき、源氏からの愛も薄れていた御息所は、娘とともに都の喧噪を離れ、野宮で精進潔斎の日々を過ごす。ところがそこへ、なんと光源氏が訪ねて来た。源氏は榊の枝に結んだ手紙を彼女に贈るが、御息所は彼の来訪を喜びつつも、結局はこれを拒む。都での日々には、もう戻るまい。その決心は、遂にゆるがなかったのだった…。

愁いに満ちた御息所の人生において、僅かな心の慰みとなった、光源氏の野宮訪問。本作は、このエピソードに基づく作品となっています。(なお、この六条御息所を主人公とする能には他に《葵上》があります。)

本作を象徴するものといえば、舞台正面に据えられた鳥居の作リ物でしょう。源氏来訪の記憶をいつまでも大切に思い、その未練ゆえに解脱を遂げられずにいる御息所。思い出の場所が忘れられず、毎年鳥居をくぐって野宮の跡へとやって来てしまう…。舞台上に屹立する鳥居は、そんな彼女の妄執の象徴ともいうべきものでした。

しかしその鳥居は、同時に、彼女を救う存在でもありました。じつは、能楽の成立した中世という時代、神道の世界では、鳥居をくぐるという行為は〈輪廻からの解脱を表現する姿〉であると理解されていました。上記「9」の場面で御息所は、妄執ゆえに毎年鳥居をくぐりに来てしまう自らの行いが、実はそんな救済の姿でもあることに気づきます。そして彼女はそこに、自らを救おうとする神の意志を感じずにはいられなかったのでした。

御息所の妄執の象徴でありながら、同時に彼女を救う可能性を秘めた、野宮の鳥居。そんな、表裏一体となった〈迷い〉と〈悟り〉の姿が、この鳥居には表現されています。

愁いに満ちた人生のなかで、傷ついた御息所の心。救いを求める彼女の思いとは裏腹に、そんな生前の日々への未練を、捨てきることはできない…。そんな、妄執と救いとの間で揺れる御息所の心の機微が、本作には描かれています。

(文:中野顕正)

(最終更新:2017年11月)

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