その雲林院へとやって来た、公光と名乗る男(ワキ)。『伊勢物語』をこよなく愛する彼は、先日、不思議な夢を見たので、その夢告に従い、やって来たのであった。
雲林院は満開の桜に包まれ、花の盛りといった風情である。
頬を伝うのは雨か、それとも恋の涙か――。
闇の夜。男は女を盗み出し、人目を忍んでさまよい行く。雅びで危険な、王朝の恋物語。
作者 | 不詳。世阿弥以前の古作。 世阿弥による改作を受けた後、さらに何者か(金春禅竹?)による再度の改作を経て、 現行の形となる。 |
場所 | 京都紫野 雲林院 (現在の京都市北区紫野) |
季節 | 仲春 |
分類 | 三・四番目物 美男物 |
前シテ | 老人 | 面:朝倉尉など 着流尉出立(一般的な老人の扮装) |
後シテ | 在原業平の霊 | 面:中将など 初冠狩衣指貫出立(王朝の貴公子の扮装) |
ワキ | 芦屋公光 | 掛素袍大口出立(武士や庶民の扮装) |
ワキツレ | 公光の従者 | 素袍上下出立(武士や庶民の扮装) |
間狂言 | この地に住む男 | 長裃出立(庶民の扮装) |
芦屋の里に住む公光(ワキ)は、幼い頃から『伊勢物語』を愛読していたが、先日、不思議な夢告を受けたので、従者たち(ワキツレ)を伴い、京都 雲林院へとやって来た。折しも桜が見事に咲いていたので、公光は一枝折ろうとする。するとそこへ、一人の老人(シテ)が現れ、古歌を引いて公光を咎めるので、公光も古歌を引いて応酬し、二人は風流な歌問答を交わす。その後、公光が先日見た夢の内容を語ると、老人は「それは『伊勢物語』の秘事を業平がそなたに授けようとしたものだろう」と告げ、自分こそ業平の化身であると仄めかして消え失せた。その夜、公光が雲林院に留まっていると、夢の中に在原業平の霊(後シテ)が現れ、昔の二条后との逃避行を語り、懐旧の舞を舞うのであった。
本作は、『伊勢物語』を題材とする能です。
いうまでもなく、『伊勢物語』は、平安時代を代表する歌物語(日本文学のジャンルのひとつで、物語のクライマックスに和歌が置かれるというもの)として、日本文学の傑作のひとつとして知られています。この『伊勢物語』は、能楽の成立した中世においては、和歌の奥義にかかわる書物として認識されており、和歌の世界で重要視されていたことが知られています。
それに伴い、『伊勢物語』の解釈をめぐっては、多くの秘伝などが生まれました。本作では、熱心なファンであった公光に対して『伊勢物語』の主人公である在原業平が物語にまつわる秘話を語る、というストーリーとなっていますが、こうした本作の構想は、中世において盛んであった『伊勢物語』をめぐる秘伝的言説活動に基づくものといえます。
その、シテ業平が秘密を語る場面(上記「7」)で語られているのは、『伊勢物語』第六段「芥川」の故事です。その物語は、次のようになっています。
――昔、男がいた。男は、とても手が届きそうにもなかった女を、何とかして盗み出して、暗闇のなか、逃げていった。途中、露に濡れた草を尻目に芥川という川を渡り、遠くへと歩いていったが、雨が激しく降りだしたので、途中にあった粗末な蔵へと女を隠した。ところが、そこは鬼の出る里で、蔵の中にいた鬼が女を一口に喰ってしまった。女は叫んだが、雷の音にかき消され、男の耳には届かなかった。翌朝、男が見てみると女の姿はなく、男は嘆き悲しんだのであった…。
――この物語に登場する「女」とは、二条の后(藤原高子。清和天皇の后)のことである。美しい人であったために盗み出されたのを、兄の
基経 もとつね や国経 くにつね が取り返したのであった。それを、ここでは「鬼」と表現したのである。
なんとも不思議な話ですが、このうちの前半部、男(在原業平)と女(二条の后)の逃避行にスポットをあてて描いたのが、上記「7」の場面となっています。上記「7」の場面では、この『伊勢物語』第六段に登場するモチーフが利用される形で、草の露にしおれた袖をからげ、雨にまぎれて恋の涙を流す業平の姿が描かれ、スキャンダラスな二条后との駆け落ちが、雅びで情趣ある物語として昇華されています。
スキャンダルぎりぎりの、危険な逃避行。しかしそれゆえにこそ、恋の情念は激しく燃え上がるのです。頬を伝う涙を振り払う、業平の恋の記憶。舞台上に蘇る、雅びでありながらも危険な恋の物語を、お楽しみください。
(文:中野顕正)
過去に掲載された曲目解説「雲林院」(文・中司由起子)