銕仙会

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曲目解説

頼政よりまさ

埋もれ木の生涯を風雅に生きた、源三位頼政。しかし彼は、その人生の最後に臨んで、歴史に名を残すことになったのだった。終焉の地・平等院で見せる、老骨の矜持。

作者 世阿弥
場所 京都南郊 宇治の里 (現在の京都府宇治市)
季節 仲夏
分類 二番目物 老武者物
登場人物
前シテ 老人 面:朝倉尉など 着流尉出立(一般的な老人の扮装)
後シテ 源頼政の霊 面:頼政 修羅物出立(鎧を身にまとった武将の扮装)
ワキ 旅の僧 着流僧出立(一般的な僧侶の扮装)
間狂言 土地の男 肩衣半袴出立(庶民の扮装)

概要

旅の僧(ワキ)が宇治の里に通りかかると、一人の老人(前シテ)が現れる。僧は老人に案内を請い、二人は里の名所を見てまわる。最後に老人は僧を平等院に案内すると、源平合戦の古蹟を見せ、今日がその合戦の日に当たるのだと教える。老人は、合戦で自刃した源頼政の回向を僧に頼み、姿を消してしまう。実はこの老人こそ、頼政の幽霊であった。

僧が供養していると、頼政の幽霊(後シテ)が往時の姿で現れ、僧の弔いに感謝する。頼政は、合戦へと至った経緯を語り、宇治川の合戦の緊迫した戦場の様子を再現して見せる。やがて、自らの最期までを語り終えた頼政は、供養を願いつつ消えてゆくのだった。

ストーリーと舞台の流れ

1 ワキが登場し、自己紹介をします。

京都の南の郊外 宇治の里。この里は、京都と奈良とをつなぐ街道の中間に位置する景勝地であった。里を貫く宇治川はごうごうと音を立てて流れ、そのほとりには平等院が、この世の浄土を体現するかの如き荘厳な姿をたたえている。

そんな宇治の里へとさしかかった、一人の僧(ワキ)。諸国を旅してまわる彼は、京都から奈良へと向かう道中、この里を訪れたのであった。

2 前シテがワキに声を掛けつつ登場し、二人は言葉を交わします。

古来より名所と謳われる、宇治の里の風情。僧があたりの景色を眺めていると、そこに一人の老人(前シテ)が現れた。「これこれ、お坊様、何をしておられる」

僧は老人にこの里の名所を尋ね、老人は僧を案内する。「これが槙の島、こちらが橘の小島…。おお、名にも似ず、朝日山から月が出てきましたぞ」 川を漕ぎゆく柴小舟、宇治の川霧におぼろけに見える里。二人は宇治の景勝を愛でるのであった。

3 前シテはワキを平等院へと案内すると、自らの正体を明かして消え失せます(中入)。

次にやって来たのは平等院。見ると、芝が扇の形に刈り残されていた。老人は、この「扇の芝」の由来を語る。「昔、平家追討の旗をあげた高倉宮がこの寺で平家軍と戦われた折、宮方の武将・源頼政がこの地で扇を敷き、自害して果てた。ここが、その古蹟なのです」

折しも、今日がその合戦のあった日。「実は私こそ、この露の世に再び姿をあらわした、頼政の幽霊…」 そう告げると、老人は消えてしまうのだった。

4 間狂言が登場し、ワキに源頼政の故事を語ります。

そこへ、この土地の男(間狂言)が現れ、僧に尋ねられるままに源頼政の故事を語る。先刻の老人が頼政の霊だと確信した僧は、弔いのため、今夜はここに留まることにした。

5 ワキが弔っていると、後シテが現れます。

夜。宇治川の川音が響きわたる中、僧は頼政の霊を弔い、深い眠りへと沈んでゆく…。

すると、彼の夢に、鎧兜に身をかためた一人の老武者(後シテ)が現れた。「流れ出る血は川となって流れゆく、壮絶な戦場のありさま。泡沫の如く儚きこの世で、つまらぬ争いをしていたものよ…」

6 後シテはワキと言葉を交わし、弔いに感謝します。

「有難いお経の声。なおも、弔いを続けて下され」 武将は僧に言葉をかける。出家姿でありながら鎧兜を着た、この老武者。彼こそ、源頼政の霊であった。

僧は頼政と言葉を交わす。「ご安心下され、頼政どの。遍く行きわたる経典の功徳、この平等院の地で、貴方は成仏の身となることができるのです…」

7 後シテは、宇治川の合戦に至った経緯を語りはじめます(〔クリ・サシ・クセ〕)。

頼政は改めて名を名乗ると、合戦に至った経緯を語り始める。

――あれは、治承四年の夏。私は、高倉宮様に挙兵を勧め、夜に紛れて都を脱出すると、近江へと落ちていった。ところが行く手には平家の大軍。私達は向きを変え、京都の南から奈良へと抜けていこうとした。昼夜を分かぬ旅路に、宮様は六度も落馬され…、私達はこの平等院で、暫し休息を取りつつ、宇治橋の橋桁を外して敵を待ち受けたのだった…。

8 後シテは、宇治川の合戦のありさまを語ります(〔語リ〕)。

――間もなくやって来た平家軍。源平両軍は川を挟んで対峙する。一騎当千の働きを見せる、源氏方の勇猛な武士たち。橋桁は外され、下は激流。攻めあぐねていた平家軍であったが、田原忠綱と名乗る武者が家臣を引き連れ、宇治川の激流へと馬を進める。川の流れを読みきった忠綱。彼は部下たちに的確な指示を出しつつ、ザッザッと馬を進め、遂にこちらの岸にたどり着いたのだった…。

9 後シテは自らの最期の様子を語って消え失せ、この能が終わります。

――源氏方の武者たちはここを最期と定め、入り乱れて戦う。やがて息子たちも討たれ、私は覚悟を決めると、芝の上に扇を敷く。自刃の刀をかまえ、辞世の歌を詠むと、ついに自ら命を絶ったのだった…。

自らの死の様子を語った頼政。「どうか、亡きあとを弔って下され。こうして出会うことのできた縁に…」 そう言うと、彼は草葉の陰へと消えていったのだった。

みどころ

源頼政(1104~1180)は、酒呑童子退治などで知られる源頼光の玄孫にあたる、平安末期の武将です。頼光の弟・頼信の玄孫にあたるのが源為義(源頼朝・義経らの祖父)なので、頼政は頼朝・義経らの遠い親戚ということになります。頼信から頼朝・義経らに至る系譜が河内国に本拠を置いたので「河内源氏」と呼ばれているのに対し、頼光から頼政に至る系譜は摂津国に本拠を置いていたので「摂津源氏」と呼ばれ、同じ清和源氏と言いながらも、両者は必ずしも一枚岩ではなかったようです。源義朝(頼朝・義経らの父)と平清盛が戦った平治の乱でも、頼政は義朝方ではなく清盛方の軍勢として戦っており、そのことで、平治の乱後にも頼政は滅亡を免れることができたのでした。

頼政は、天皇を悩ませていた怪物・ぬえを退治したことでも知られており、その物語を描いた能《》の中でも話題に上げられている人物ですが、同時期の平家一門が栄華を極めたのと比べると、地味な存在でした。和歌に堪能で、勅撰集にも採られるほどの風雅な人物ではあったのでしたが、家系的にはそこまで出世できる出自ではなく、その意味では、周囲と比べると不遇な人生であったといえましょう。それでも頼政は堅実につとめをこなし、源平の合戦がはじまる2年前には三位にまで昇進しています。時に頼政は75歳。晴れて公卿の座に連なることができ、行けるところまで行き着いた頼政は、その翌年には出家を遂げています。

そのように、地味ながらも堅実に昇進してゆき、生涯で思い残すこともなくなったかに見えた頼政でしたが、治承4年(1180)、事態は急変します。

治承4年5月、後白河院の皇子の一人・高倉宮たかくらのみや以仁もちひと王が平氏政権打倒をかかげて兵を起こし、ここに治承・寿永の内乱(いわゆる源平合戦)が始まります。もともと聡明で有力な皇位継承者の一人と目されていた以仁王は、同じく後白河院の皇子・憲仁のりひと親王を推す平家一門らと対立していたのでしたが、憲仁親王が天皇として即位し(高倉天皇)、次いで高倉天皇と徳子(平清盛の娘)の間に生まれた言仁ときひと親王が即位(安徳天皇)するに及んで、皇位の望みを絶たれた以仁王は深く平家を憎むことになったのでした。

『平家物語』の中では、平家からはずかしめを受けた頼政が以仁王を誘って平家打倒の戦いを始めたとされていますが、どうやら実際には、以仁王のほうから平家打倒の動きを起こしたというのが真相のようです。いずれにせよ、こうした経歴をもつ以仁王と頼政の二人によって、源平合戦の火蓋は切って落とされたのでした。

ところが、結果は以仁王・頼政側の敗北に終わります。上記「9」の場面で描かれているように、平等院での戦いに敗れた頼政は、遂に自刃して果てることとなったのでした。『平家物語』によれば、そのとき辞世として、次のような歌を詠んだといいます。

埋もれ木の花咲くことも無かりしに 身のなる果ては哀れなりけり

(地味なままであった我が人生、華やかなことなど無かったが、それなのにわが身がこうして果ててゆくのは、哀れなことだ。 …あたかも、花も咲かぬ埋もれ木に実がなるように。)

わが人生を振り返り、頼政は身の果てを悔やむのでした。

わが身の終焉を迎えてなお、歌を詠むことを忘れない、頼政の風雅心。堅実に生き、人生の最後に及んで歴史に名を残した老将の矜持を、お楽しみ下さい。

(文:中野顕正)

過去に掲載された曲目解説「頼政」(文・江口文恵)

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(最終更新:2017年1月)

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